『BODY』



●作 猫柳 まんぼ



―――焦げくさい臭いで、俺は覚醒した。
周囲がいやに騒がしい。
警報が鳴っている。
そんなことより身体が重い。
実験は、どうなった?
アクシデントは、回避したのか?
俺が覚醒したということは、少なくとも最悪の事態は避けられたようだ。
アクシデントの原因は?
電圧の異常が挙げられる。
このラボで電圧の異常だって?
馬鹿げたことだが事実だ。
至急、原因の究明に当たる必要がある。
幸い俺は生きて思考している。
これは大事なことだ。
それにしても、いつまで俺を放っておくんだ?
こっちは身体の自由が利かないってのに……。
BODYにもトラブルか?
それなら仕方が無いか。
あの子は値段が高いからな。
OSのインストールにも失敗か。
コピー元にこんな負担が掛かるとは、予想を超えている。
シミュレーションでは問題は無かったというのに。
まさか電圧が……だよな。
それがすべてを狂わせたってことか。
でも、どうして身体が動かないんだ?
声も出ない。
瞬き。これは大丈夫だ。
呼吸は、申し分無い。
まるで金縛りだな。
「―――覚醒してるわ」
誰かが俺の顔を覗き込んだ。
逆光で良く見えない。
「成功してるのか?」
別の声がする。
「まだわからないわ、インストールに失敗している可能性が有るもの」
俺の頬に触れる。
冷たい手だ。
顔が見える。
恵子クンか。
冷静なキミは、何をそんなに慌ててるんだ?
「主任は……」
俺はここにいるだろう?
「駄目だ。脳波が完全にフラットだ」
「そんな」
恵子クンは、俺の頬に触れたまま絶句する。
待て。
どういうことだ、それは?
脳波がフラット?
じゃあ、ここで思考している俺は。
「―――俺は」
やっと小さな声が漏れた。
しかし、この声は?
「しゃべったわ!」
周囲が静まり返った。
「主任なんですね?」
恵子クンが、俺の目を覗き込む。
「ああ、そうだ」
僅かに首を動かしてうなずく。
「―――BODYの起動は成功したのね」
彼女は涙を浮かべてそう言った。


「主任、そろそろ学校ですよ」
車窓から街並みを眺めていると恵子クンが俺の手を握った。
「わかってる」
俺は座席の脇に置いた学校指定のカバンを手に取り白いプリーツスカートの裾を直す。
その途中で動きを止めた。
「恵子クン、俺は本当に―――転校しなくちゃならないのか?」
ため息混じりに呟く。
「主任、その言葉遣い直さないといけませんよ。なんたって10歳の女の子なんですから。しかもとってもかわいい」
恵子はそう言って、ショートカットの俺の頭に制服とお揃いの水兵の被るような帽子を載せてくれた。
「キミも10歳の女の子を主任と呼ぶのは止めてくれ」
「わかりました、瀬尾アヤメさん」
有能な副主任研究員の有森恵子は、聖母のような慈悲に満ちた笑みを浮かべた。

型の古いベンツのS600は、某有名私立大学初等部の門を潜った。
俺はずっと国公立で通して来たので私学に入学するのはこれが初めてだ。
まさか小学校からやり直すはめになるとは思いもしなかったが。
運転手が開けてくれた重いドアからピョンと飛び降りてカバンを背負う。
俺の頃は黒いランドセルだったのに、いまは何ともオシャレなデザインだ。
制服もアニメのキャラクターを連想してしまう。
「とってもかわいいですよ」
「そう」
誉められれば嬉しくなる。元々、俺の精神構造は単純なのだ。
「いいですか、アヤメさん。これから私はあなたの部下では無くて保護者になるんですからちゃんと話を合わせて下さいね」
恵子クンは、腰を落として俺の視線に合わせてくれる。
「わかってる、子供じゃないんだから、ここまで来たら潔く諦めるよ」
姿形は思いっきり子供であるが。

俺の本名は瀬尾浩之。れっきとした♂である。
いや、本物は半年前の起動実験で死んじまったので、いまの俺自身はその人格のコピーに過ぎない。
いま俺の入れ物になっているこのBODYは、かわいい10歳のショートカットの女の子だ。
トラブルにもめげず起動はこのとおり上手く行き、OSである俺の人格もこうしてちゃんと稼動している。10歳の女の子の身体に30半ばの男の魂が閉じ込められているという不可思議な現象を引きずって。

校長室は、想像していたよりもずっと近代的だった。現実はテレビドラマよりも先を行っているわけだ。
「ようこそ、瀬尾アヤメくん」
校長(本当は部長と呼ぶらしい)が手を差しのばす。
年の頃は、俺の母親ぐらいのオバサンと握手をする。
キビキビしているけど性格はキツそうだ。教鞭を取っていた頃はさぞ怖い先生だったろう。
「よろしくお願いします」
俺は、帽子を取ってペコリと頭を下げる。
「礼儀が正しいね、さすがに××先生が推薦されたことだけは有りますね」
校長は文部大臣の名前を出す。どうやら、俺の知らないところでコネが使われまくっているようだ。
それに戸籍もねつ造しているわけだし。
「それに成績も申し分無い。算数など初等部のレベルでは無いと試験をされた先生がおっしゃっていたわ」
「ありがとうございます」
俺に代わって恵子クンが答えてくれる。
算数が初等部レベルではそれこそ大変だ。
「優秀な生徒は、我が校の最も必要とする人材ですからね」
校長の話しが長いのは、多額の寄付金へのお礼の意味もあるらしい。
卒業生のお歴々の紹介が始まって、校長の交遊録に話が進む。
俺としては、さっさと教室にでも連れて行ってお遊戯でもヤラしてくれという心境になっていた。
「蓮見先生をこちらへ」
長い話の後、やっと内線を使って担任の先生を呼び出してくれた。
蓮見か……懐かしい苗字だな。
思わず苦笑いしてしまいそうになる。
直ぐに扉がノックされ、開かれた。
「紹介しましょう、アヤメくんの担任になる蓮見純子先生です」
「……」
俺は、その長身の美人の前で固まってしまった。
「蓮見です。よろしくね」
「……はい」
純子は、あの頃よりずっと綺麗になっていた。

まさか、こんな形で再会するとは。

教室は教師の到着前から、シンと静まり返っていた。さすがにお坊ちゃん校なだけあって良く躾られている。
「瀬尾アヤメさんです」
純子が、俺の新しい名前を黒板に書いてクラスメートの子供たちに紹介してくれた。
俺も調子を合わせてペコリとお辞儀をしてから自己紹介する。
恵子クンの作ってくれたプロフィールを暗証するだけだが。
「アヤメさんの席は、犬神さんのお隣ね」
窓際の一番後ろの席の女の子が手を挙げた。なるほど隣の席が空いている。
俺はその子の隣に座った。
「犬神マヤです、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
黒く長い髪の色白のおとなしそうな女の子だった。それでいて漂う気品は、やはり生まれ付いてのものだろうか。
俺の育った田舎の学校とは根本的に違う。

しかし、後のガキどもはたいして変わらなかった。
純子と再会した甘酸っぱい思い出に浸る間も無く、休み時間にはクラスメートたちから質問攻めに会う事となった。
闖入者に対する子供の好奇心に違いは無いらしい。
『何処から来たの?』
『何処に住んでるの?』
『どうして転校して来たの?』
それに対してはマニュアルどおりの返答をした。
恵子クン作成の瀬尾アヤメのプロフィールを繰り返す。
「お父さんは、どんな仕事してるの?」
最後の質問は、小太りの底意地の悪そうなガキがした。
「キミのお父さんは何してるの?」
「僕のパパは、△△物産の部長をしてるんだ」
どうだ凄いだろうと言いたいらしい。
「ああ、あの潰れそうなところね」
軽く流したつもりが……。
「ええっ……」
クラスメートにどよめきが走る。
「変なこと言うな! おまえのお父さんは何やってんだよ!」
「さあね、知らない」
「バカじゃねえの、こいつ、お父さんの仕事知らないんだって!」
鬼の首を取ったようにはやし立てる。
親父と言わずお父さんと飽くまで言うあたりが上品である。
『親父はとっくにあの世に行ってるよ』と、フランス語で言ってやる。
すると、またクラスメートがどよめいた。
「すげえ、英語だ」
「帰国子女」
「かっこいい」
所詮、日本人の語学力はこのぐらいである。
「フランス語だよ、英語なら……」と、今度は英語に直す。
クラスメートは、小太りのガキを含めて全員がポカンとした。
ただ一人……。
「お父様、亡くなられたのですか?」
犬神マヤだけはしっかりとヒヤリングしたようだ。
「昔の話だよ……」
ここで中学の時に死んだとは言えず言葉を濁した。
「あっ、いえ、余計なことを聞いてすいません」
「気にしなくていいよ、でも良くわかったね」
「外国語は小さい頃から習わされましたから」
「そう、俺の……じゃなくて、あたしの訛ったフランス語が聞き取れるならたいしたもんだ」
そこにチャイムが鳴って教師(純子では無かったのでちょっとホッとした)が来たので会話はそこで中断した。

授業は退屈というより苦痛だった。
教育テレビを見ているより辛い(テレビの方が演出は上だ)。子供の頃の時間が妙に長かった理由をいま解明したような気がする。
チャイムが鳴って昼休みになった。
子供頃と同じぐらい嬉しくなっている自分に気付く。
「ふう」
ため息を吐いたところに何人かのクラスメートの女の子が来た。
「瀬尾さん、一緒にお弁当を食べよう」
と誘ってくれた。
「うん、犬神さんは?」
俺は、隣の長い髪の少女に聞く。
「私はいいです」
困ったような笑みを浮かべる。
クラスの女の子たちも戸惑ったような表情を浮かべていた。
つまりこの子たちは、一緒にお弁当を食べるという習慣が無いらしい。
「じゃあ、あたしもここで食べるよ、ごめんね、みんなせっかく誘ってくれたのに」
「いいの、また今度ね」
女の子たちは、ぎこちない笑みを浮かべて自分たちのテリトリーへと戻って行った。
「あの……瀬尾さんは、みんなの所に行った方がいいですよ」
犬神マヤは伏し目がちに言った。
「もしかして、迷惑だった?」
「いえ、そんなことは無いですけど……」
「じゃあ、いいでしょう」
強引に一緒に食べることにして、有森恵子副主任研究員お手製の弁当箱を開けた。
「おっ……」
「どうしました?」
「いや、こっちの話し」
最悪、日の丸弁当かと思っていたが、意外にもちゃんとしていた……なんて言ったら失礼か。
彼女とは3年ほど一緒に働いたが、コンビニ弁当かハンバーガーかカロリーメイトぐらいしか食べてるところを見たことが無かった。
例え……弁当箱にスニッカーズが並べて有っても俺は、ビックリはしなかったろう。
厚焼き玉子にウインナーにスパゲッティにサラダ……それにシャケまで。
こっちの方がビックリする。
「犬神さん、食べ終わったら、学校の中を案内してくれないかな」
マヤに話し掛けると、サンドイッチを飲み込んでから笑みを浮かべてうなずいた。
「はい、喜んで」
やっぱり女の子は、微笑んでいる時がいちばんだねと思う。

「あの、アヤメちゃんとお呼びしていいですか?」
昼食の後、ふたり並んで廊下に出るとマヤは恥ずかしそうに言った。
「じゃあ、俺……じゃない、あたしはマヤちゃんて呼んでいいのかな」
「ええ」
「それじゃ案内してくれる、マヤちゃん」
「はい、アヤメちゃん」
俺は差し出されたマヤの手を握った。
半年前は、想像もしなかったシチュエーションである。
まさか小学校の中を10歳の女の子と手を繋いで歩くとは。
純子と別れることがなかったら―――。
―――マヤみたいな娘が出来て。
なんて、唐突に思ってしまった。
やはりあいつとの再会で、俺はまだ動揺しているらしい。これは確実にモニターされてるな。
「まずは、何処からにします」
それにしても言葉遣いの丁寧な子供だ。
「職員室からにしよう」
「はい、では、こちらです」
娘を持つどころか同級生になるのだから人生、何が有るのかわからない。

「あら、アヤメさんに犬神さん」
マヤに案内されて職員室に来たところで、目の前の扉から純子が現れた。
教師になって10年にはなるだろう。そして離別からも……。
「校内をマヤさんに案内して貰ってるんです」
俺は何故か焦って早口になってしまう。
「あら、そうじゃあ頼むわね、犬神さん」
ニコっと笑って行ってしまった。
「同じ香水……」
「えっ、香水ですか」
ボソっと呟いたのをマヤに聞かれてしまった。
「あっ、いや、何でも無いよ、次は……そうだ、図書室に連れて行って」
俺が遙か昔プレゼントした香水と同じ香りだった。

図書室や理科室を回った後、俺は最後に保健室をリクエストした。
「どこかお加減でも悪いんですか?」
マヤが表情を曇らせる。
「違うよ、保健の先生に挨拶をするだけだよ、ちょっとした知り合いなんでね」
小学生らしからぬ言い回しのような気もするが、まあいいだろう。
保健室には既に2週間前にバックアップ要員が配置してある。
彼女が、学校でのデータをモニターしていた。
「いらっしゃい」
いまは、養護教員に化けている根岸明日香研究員が出迎えてくれる。
「あら、もうかわいいお友達が出来たのね。相変わらず手が早いこと」
俺の頭を撫でながらクスっと笑う。
年齢は俺より5つ下で今年大台の筈だが、いまだに小学生みたいな顔と胸をしている。
「犬神マヤさんです」
何故こいつに敬語を使わねばならんのだと思いながらも、マヤを驚かしてはイケナイので猫を10匹ほど被った。
マヤは丁寧にお辞儀する。
「根岸です、よろしくねマヤちゃん。この子と仲良くしてあげてね」
明日香は、さらに俺の頭をゴシゴシなでながら言う。―――こ、こいつ。

俺とマヤは勧められるまま小さな椅子に座る。
「調子はどうですか?」
「申し分無いです」
「朝とさっき、モニターに大きな揺れが有りましたけど」
「個人的な動揺です」
「聞いてもいい?」
「答えたくありません」
「まあ、いいか……特に問題は有りませんね、でも1日1回はここに顔を出すこといいですね」
「はい」
俺の問診の後、明日香はマヤを見る。
「犬神さん、あなた犬神ケミカルのお嬢さんね?」
「……はい……」
マヤは困った顔でうなずいた。
犬神ケミカルって言ったら……あの犬神ケミカルか。
うちのプロジェクトにも参加していたはずだ。
「マヤさん、アヤメちゃんのこと頼むわね。この子ったら、女の子なのに女の子のこと何も知らないのよ」
確かに女の子のことは何も知らない。
「はい」
今度は笑顔でうなずいてくれた。

純子と再会した挙句、彼女の授業を受けることになるとは思わなかった。
それにしても最近の教科書のカラフルなこと。
内容も簡単になったような気もするし、だから逆に難しくなったような気がしないでも無い。
純子が綺麗な声で教科書を朗読する。
学生の頃、演劇を齧っていただけあって声の出し方が素人とは違う。
何度か舞台を見たことがあるけど、長身で目立つ顔立ちの彼女は脇役でもずいぶんと目立っていた。
―――あまり浸っていると明日香クンにモニターされるからこのぐらいにしておこう。
「アヤメさん」
そう思ったところで、純子に指された。
「はい」
「日本の主な公害病を挙げてみて」
「第1種ですか、それとも2種?」
「第2種地域でいいわ」
「水俣病、イタイイタイ病、慢性砒素中毒です」
「詳しいのね」
「教科書で見ただけです」
「そう、ありがとう、いいわ」
何故いまになって、俺は純子と再会したのだろう。
偶然?
そうだな。
瀬尾浩之という男は、既に半年前に死んでしまった。
俺はその影に過ぎない。
昔の出来事を記録したテープと同じだ。
現実には存在しない……。
「ご気分でも、悪いのですか」
マヤがそっと囁く。
『大丈夫、なんでも無いよ』
俺はギコチ無い笑みを浮かべフランス語で答えた。

私立のお坊ちゃん校だけあって放課後の掃除とかいうヤボな時間は無かった。業者の人がさっさと掃除機で綺麗にして行く。考え様によっては、ガキにやらせるよりこっちの方がずっと合理的である。
俺とマヤは英語とフランス語を混ぜこぜにしてお喋りしながら、昇降口に向かった。他の子供たちはびっくりして道を開けてくれる。やはり先祖の代から舶来に弱い民族だ。
それはさて置き、マヤがクラスで浮いた存在なのはわかった。
問題は彼女の知性の高さだ。
子供の中に大人が混ざってるのと同じ。
合わせようとしても、そうそう合わせ切れるものでは無い。
大人の知性に子供の心が宿っている。
そんなアンバランスさが有るから、俺とウマが合うのだろう。
「お嬢様」
校門を出たところで呼び止められる。無論、俺を呼んだわけではない。
「お帰りなさいませ」
眼光の鋭い女性で、警官か軍人を連想させる40歳ぐらいの人だ。
「ただいま、佐々木さん」
マヤは会釈する。実に礼儀正しい。
「お友達ですか」
佐々木と呼ばれた女性は顔をほころばせる。笑顔は優しいお母さんて感じだ。
「瀬尾アヤメです」
俺も丁寧に挨拶しておく。
「よろしく、さあ、お嬢様参りましょう」
サッと車のドアを開ける。らしい身のこなしと言えよう。
「さようならアヤメちゃん」
マヤは、シートに座ると俺に手を振った。
「また明日ね」
俺も手を振って見送る。
マヤのところの車は、ベントレーのターボ付きだ。ロールスじゃないあたりが親父の趣味を感じさせる。
それが走り出すと、その後に直ぐベンツが横付けされ恵子クンがドアを開けてくれた。

「登校1日目はどうでした」
「疲れたよ」
「BODYの疲労ですか?」
「いや、メンタルな領域だ」
カバンを背中か下ろして水兵の帽子を外す。
「担任の蓮見純子先生、主任の葬儀にいらしてましたね」
「そうだったのか、俺は気付かなかったよ」
身体の自由が利かなかったので、参列者まで注意が回らなかったのだ。
「彼女のこと知っていたのか?」
「いえ、先ほど明日香さんから報告が有ったものですから調べさせていただきました」
「そうか」
「申し訳有りません」
「いや、いい、昔のことだ」
それ以外の何モノでも無い。

俺のメンテナンスステーションは、学校から車で5分程の距離にあるマンションの一室が当てられている。
車はそのまま回送され、降り立ったのは俺と恵子クンだけだ。
「暫くはキミとふたりだけだね」
「そうですね」
カードキーでロビーへと入る。エレベーターにはまた別のカードを使う。
さすがに目玉が飛び出るような家賃を取るだけあって、セキュリティーはそこそこしっかりしていた。
「私たち傍目から見たら親子でしょうか?」
エレベーターは高速で上昇する。
「10歳の子持ちには見えんだろう」
「そうでしょうか、高校を出て直ぐ出産すれば無理は有りませんよ」
「でも、キミは子供がいるようには見えない」
「きっと、これから見えるようになるんじゃないですか」
エレベーターは最上階で止まった。

「機材は?」
ここに自分で来たのは初めてだった。準備は恵子クンが指揮を執って行われている。
「設置は完了しています」
「じゃあ、メンテを開始するか」
リビングから、暗室のような窓の無い小部屋に入る。
そこにあるのは、前衛芸術家の手による棺桶のような代物。
中は沈んでも呼吸の出来る羊水で満たされていた。
「シャワーは浴びなくていいのか?」
「大丈夫です」
俺は棺桶の前で制服を脱ぐ。
その隣では恵子が綺麗に畳んでくれる。確かにお母さんみたいだ。
「どうせなら18ぐらいにしておくんだったな」
凸凹の無い痩せっぽちな自分の身体を見て呟く。
「それはそれで大変ですよ」
「……そうなのかな」
「10歳の女の子、これがいま私たちの技術の限界ですから」
「わかってる、自分で設定したんだからな。始めよう」
「はい」
俺は恵子クンに持ち上げて貰ってイカした棺桶に身体を沈めた。

ブクブクと肺に羊水が流れ込む。
鼻がツーンとして本物の子供ならパニくってるところだろう。
「スキャン開始」
水の中に恵子クンの声が響く。
被検体である俺は、ただ羊水に沈んでいればいい。
何もする必要が無い。
いまごろ遠く離れたラボでは馴染みのスタッフたちが忙しく働いていることだろう。
俺は俺で小学校にBODYを通わせるという重大な任務を遂行中だけど、仕事をしているという実感には欠けていた。

メンテは予定通りに短時間で終了する。
ザバッ……。
羊水から顔だし、肺の中の水を吐き出す。
「はああ、ふう……普通の空気の方が美味いな」
「この次は、イチゴ味にでもしておきますか?」
また恵子クンに抱き上げて貰って床に降り立つ。
「そういうベトベトしそうなのは止めようよ」
「じゃあ、メロンも駄目ですね」
「かき氷のシロップじゃないんだから」
「じゃあ少しでも喉越しが良くなるように要求を出しておきますね」
「そうしてくれ」
身体から滴る羊水を簡単に拭いてから、風呂場へ向かった。
羊水自体は水とそれほど変わらないのだが、主に気分的な問題だ。
頭からシャワーを浴びて身体をゴシゴシと擦って石鹸の泡まみれにした。

「―――家の中でもスカートなのか?」
用意してくれた服に袖を通したが……ピンクのセーターまでは許すとして、デニムのスカートは抵抗が有った。
「山田室長からのプレゼントですから」
「あの野郎……」
ニヤリと笑った中年男の顔が浮かぶ。
「それに女の子の平均的な服装をしていただかなくてはなりませんから」
「……わかったよ」
昨日までの貫頭衣みたいなモノよりはマシだ。
「にゃあ」
黒猫が俺の足に頭を擦り付けていた。子猫よりは大きいけど大人というほどでは無い。長い尻尾をクネクネとクネらせる。
「これは、キミの猫?」
「ええ、置いて来るわけには行かなかったものですから、もしかしてお嫌いですか」
「いや、そんなことは無いよ。名前は?」
「クロスケです」
「オス?」
「いえ、メスです」
「そう」
クロスケを抱き上げる。
ゴロゴロ喉を鳴らして直ぐに目を閉じてしまう。
「ノンキな奴だね」
「きっと私に似てるんです」
「そうかな」
「主任」
「何だい」
「髪を解かしましょう」
俺は猫を抱いたまま鏡の前に連れて行かれた。

BODYの見せる夢は鮮明だ。過去の事象がリアルに再生される。
夢はリレーショナルデータベースに似ている。
キーワードを頼りに記憶をたどり匂いさえも再現する。
「純子……」
純子と出会ったのは大学。
そのサークルでだ。
俺はドクターコースに籍を置き、彼女は新入生だった。
長身で痩せっぽちの女の子、それが最初の印象だ。
でも、笑顔が俺の心を引き付けた。
俺たちは最初のコンパの帰りに深い仲になり、関係は彼女が卒業するまで続いた。
その4年間から見れば、離別はひどく呆気なかった。
純子の卒業と時を同じくして、俺に来た海外の研究機関からのプロジェクト参加要請。
ドクターコースを終了後、助手として研究室に残っていた俺に来た最初のチャンスだった。
当然、俺は彼女に求婚し一緒に行ってくれるように頼んだ。
一緒に行ってくれるものだと思っていた。
だが、違っていた。
純子は教師の道を選んだ。
夢は懇切丁寧に再現してくれる。
忘れたことも忘れたかったこともすべて。
焦げ臭い匂い。
眩しいライト。
運び出される俺の身体。
抜け殻。
最後に俺の葬式のシーンがモンタージュされる。
ここ半年の定番プログラムだ。
白と黒の鯨幕。
うなだれた母親。兄弟たち。
俺の照れた笑みを浮かべた遺影。
まだ、歩けなかった俺は、スタッフの一人に抱かれて自分の葬式を見た。
そこに恐怖は無い。
言いようの無い喪失感があるだけだ。

真夜中に目を覚ます。
寝汗をかいて水分が不足したらしい。
小さなベッドから起き出してキッチンに向かう。
裸足で床をペタペタ歩く音もやっと自分のそれと認識出来る様になって来た。
何もかもが大きく見える。
実際、いまの俺のスケールからすると目の錯覚ではない。
BODYになって良かった数少ない利点の1つである。
ド近眼だった視力が回復し、さらに夜目が効くようになったこと。
暗い室内で頭をブツけることもない。
とは、言ってもここは俺の部屋とは違いモデルルームのように綺麗だから、手探りでもラーメンの丼に足を突っ込んだりはしない。
巨大な冷蔵庫の扉を開けるとキッチンにオレンジ色の光が漏れる。
それは食器棚の硝子に俺の姿を映し出した。
10歳のショートカットの少女。
パジャマを着ていて髪は綺麗に解かされている。
将来はきっと美人になるのだろう。
人間ならば……。
ウーロン茶をコップに注いで、冷蔵庫に戻すとキッチンはまた青い闇に閉ざされる。
「主任……どうしました」
囁くような小さな声だった。
「ごめん、起こしちゃったか」
恵子クンはキッチンの明かりを点けた。
硬く結っていた髪は解き、コンタクトの代わりに眼鏡をしている。
ダブダブの青いパジャマは男物かもしれない。
「こうしてみると20歳そこそこのお嬢さんだな」
「からかわないで下さい」
「心配しなくてもビールは飲んでないよ」
「当たり前です」
「夢見が悪くて汗をかいたんだ、だからこうして補給」
ウーロン茶のコップを掲げて見せる。
「私もいただきますね」
「じゃあ、俺が……」
「主任」
「んっ?」
「その姿で『俺』は止めて下さい」
「そうだったね、ママにはあたしが注いであげる」
「ママですか」
クスッと笑う。
「失礼だったかな」
テーブルに置いたコップにペットボトルを両手で支えながら琥珀の液を満たした。
「いえ、たぶんそれが自然でしょう」
「じゃあ、外ではそう呼ぼうかな」
「遠慮なさらずにここでもママでいいですよ」
恵子クンは、コップを手に取ると会釈してから口を付けた。
「明日香クンになんて言われるか」
「ふふ、そうですね」
恵子クンは優しく俺の髪を撫でる。
彼女が俺の身体に触れたのはBODYに移ってからだ。勿論、頭を撫でるぐらいだが。
「これまですっと一緒にいたのに、同じ屋根の下で寝るのは初めてですね」
「確かに」
「主任……あの……」
「なに、お代わり?」
「いえ……ちょっとの間だけ……」
恵子クンは跪くと俺の身体をそっと抱き締める。
彼女は、声を殺して泣いていた。
「―――神様は、残酷です―――私はまだ何も言ってなかったのに―――」
「そうだね」
俺は恵子クンの肩に額を載せた。
「でも、奴だってキミの気持ちは分かっていたよ。それはあたしが保証するよ」
「にゃあ」
足に柔らかな毛が擦り付けられる。
「クロスケも起きたのか」
ゴシゴシと俺の足に自分の頭を擦り付けた黒猫は、満足したらしくトコトコとキッチンを出て行ってしまった。

翌朝、山田室長がプレゼントしてくれたドラえもんの目覚ましで起こされた。
「ふう、また学校か……」
こんな気分も四半世紀ぶりだろうか。
しかし、いつまで寝ていると恵子クンに着せ替えされてしまうから、さっさと支度をすることにしよう。

「おはようございます、調子はいかがですか?」
恵子クンはエプロン姿で、朝食とお弁当の用意をしてくれている。
「おはよう、たぶん快調だよ」
「寝癖が付いてますね」
「ああ、髪か忘れてた」
「出掛ける前に解かしてあげますから」
嬉しそうに言う。
「……まかせるよ」
俺はキッチンの椅子に座るとテーブルの日経新聞を手に取った。
10歳の女の子が日経の株式欄を真剣に眺めている風景は、日本中探してもそうは見つからないだろう。
「また、始めるんですか」
恵子クンは俺の前に牛乳を掛けたシリアルを置く。
「小学生のお小遣いではねえ」
趣味で増やした株はすべて処分されて母親に渡された。俺の出来た数少ない親孝行の1つだな。
「少しぐらいならお貸ししますよ」
次にオレンジジュースを置く。
「いや……焦げ付かせても返せないから止めておくよ」
俺はフニャフニャになる前にシリアルをスプーンですくった。
「今日からは徒歩の通学ですが、本当にいいんですか?」
「心配無いよ、徒歩と言っても地下鉄だし、その方がデータが生きてくるだろう、山田室長も喜ぶ」
「それはそうですが……」
「それに俺だって地下鉄ぐらい乗れるぞ」
「外で『俺』は、絶対駄目ですよ」
「はい……」

髪を丹念に解かし、最後に帽子を載せてもらう。
「では、気を付けて」
玄関先で恵子クンに見送られ、俺は廊下に飛び出した。
身体が軽い。素材レベルで人間とは互換性は無いが、その反面この身体で垂直に2メートル以上跳ぶことが出来る。
人前ではやらないけど。
無論、身体の中に機械が入ってるわけではない。
素材の違いだけだ。
ぴょんと跳ねて天井にタッチしてから、何食わぬ顔でエレベーターに乗り込んだ。

地下鉄駅を出ると学校は目の前に有った。
階段からは同じ制服の子供たちが続々と吐き出されるので、小数の大人たちは壁際に貼り付いている。これぞ民主主義、数が多い方が正義だ。
車で送られて来る生徒も多い。
車種も高級車が目に付く。
しかしベントレーのターボ付きは犬神のお嬢さんだけのようだ。廉価版(でも俺の表の年棒よりも高いけどな)ならあと2台ほどいたが。
「やあ」
ドアの前で手を挙げて挨拶するとマヤはビックリしたような顔をした。
「おはようございます」
それでも丁寧に挨拶をする。
「ちょうど来たところなんだ」
「お車は見えませんでしたが」
「今日からは地下鉄、昨日はちょっと離れたところから来たんで車だったの」
「そうですか、地下鉄の方が自由でいいかも知れませんね」
俺はマヤの父親を良く知っていた。彼女の父、犬神喜一郎の犬神ケミカルはBODYプロジェクトの重要なパートナーの1つたからだ。
だからと言って、裏工作をしてマヤの隣の席になったわけじゃないし、友達になったわけでもない。すべては偶然である。
30半ばの男が10歳の女の子と友達になるというのはかなり変質的であるが、傍から見れば俺も10歳の女の子だから問題はあるまい。
いずれにしても平均的な10歳の女の子として生活しなくては、生きたデータが取れないのだから仕方が無い。

「アヤメさん、ちょっと」
純子に呼ばれたのは朝のHRの後だった。
「今週、家庭訪問良かったかしら」
「今週ですか」
「先月にクラス全員終わってるの。それで残ってるのはアヤメさんだけなのよ。資料を作る関係上なるべく急ぎたいんだけど、お家の方、都合は付くかしら」
「それなら今日にしませんか?」
「でも、それは急過ぎない、第一お家の方が何ておっしゃるか」
「電話で確認してみますか?」
「それは私がするからいいわ、お家の方いらっしゃるんでしょう」
「たぶん」
純子の表情が一瞬、強張った。
「どうしました?」
「ごめんなさい、あなたの仕草、知っている人に似てたものだから……都合は後でお家の方に聞いてみるわね」
まるで誤魔化すみたいに後の言葉を早口に言った。
「もし今日、お家の方の都合が付いたら放課後、先生と一緒に帰りましょうね」
「はい」
純子は昔と同じ笑みを浮かべた。

「蓮見先生って、結婚してるのかなあ」
昼休み、恵子クンのお手製弁当を食べながら、独り言のように呟く。
「独身のはずですよ」
隣にいるマヤが教えてくれた。
「ふーん、付き合ってる人とかいないのかなあ」
「申し訳有りません、そこまでは」
「マヤちゃんが知ってるわけ無いよね、ごめん変なこと聞いちゃって」
俺たちの話題は、今朝のニュースの自動車会社の合弁のニュース。
日経を読む小学生が実は俺の隣にいたわけだ。
さすがは犬神喜一郎の娘である。英才教育でもしてるのだろうか?
「もしかして、株やってる」
「はあ、あの……少し」
恥ずかしそうに答える。
「あたしもやってたよ、転校する前に全部売っちゃったけど」
そのあと我々は、最近の注目銘柄について意見を交換した。

5時間目の休み時間に俺は保健室のドアをノックした。
「今日は一人なんですね」
出迎えた明日香は開口一番そう言った。
「早くしてくれよ」
「はいはい」
俺は小さな丸椅子に座って明日香のチェクを待つ。
「昨日よりはずっと平坦ですね」
小さな端末を操作しながら言う。
「そうそう、驚かされてたまるか」
「自覚症状は何か有りますか?」
「特に何も無いが、明日香クンからは何かあるのか?」
「考えられる可能性としては、思考の女性化が挙げられます」
「確かに、有りそうな可能性ではあるな。メンテの時にOSをチェックしてみるよ」
「お願いします」
「でも、いまのところお人形さん遊びがしたくなるような欲求は無いけどな」
「代わりにかわいいお友達が出来たじゃないですか」
「ボーイフレンドよりはマシだろう」
「言えてますね」
「このBODYは成長しない、つまりこれ以上の女性化は無いとも考えられる」
「仕草が、ぐっと女の子っぽくなって来ましたよ」
「恵子クンにチェックされたからね」
「ラボではどう考えている?」
「心と身体のギャップは、埋められる方向に向かうのではないかと予想しています」
「確かに俺は既に瀬尾浩之のパーソナリティーでは無い、それは自覚しているよ」
「主任、『俺』はいけんませんよ」
「―――わかってるよ」
「このまま瀬尾アヤメでいいじゃないですか。受け入れることは大切ですよ」
「ああ、わがままは言わないよ、あたしは聞き分けがいいからね」
「チェック終わりました。問題は有りません、ただし自覚症状は絶対に見落とさないで下さい」
「了解、引き続きモニター頼む」
「わかりました」
「他の生徒たちの面倒もちゃんと見ろよ」
「ご心配なく」
その返事を聞いてから、俺は保健室を後にした。

放課後、家庭訪問が実施されることになり、約束通り先生と一緒に帰宅することになった。
純子と地下鉄に乗るのは本当に久し振りだ。
「アヤメさんのお家は近くていいわね」
地下鉄で駅三つ分の距離だ。
「先生は何処にお住まいなんですか」
「先生はね、もっと遠くよ」
彼女の部屋は、学校の教職員住宅にあるそうだ。
「だから、通勤も結構大変なのよ」
そこには俺の知らない純子の生活が有る。知りたく無いと言ったら嘘になるが、積極的に聞き出そうとは思わなかった。
純子がつり革に掴まり、到底届かない俺は彼女の手を握っている。
その温もりは、昔と少しも変わらない―――とか、感傷的な思い出に浸りたいところだが、純子と手を繋いだ記憶が無い。
それを取り戻そうというわけでは無いが、地下鉄を出ても俺は純子の手を握っていた。
「先生、いい匂いがするね」
「香水なんだけど、わかっちゃった?」
別に犬並に嗅覚が強化されているわけでは無い。
「……て、言うの」
昔、俺がプレゼントしたものと同じ名前だ。
「昔からずっと同じものばかり付けてるから、身体に染み付いちゃったのかも知れないわね」
「いい匂いだよ」
「ありがとう」
その香水をプレゼントした昔の恋人が、いま小学生になって自分の受け持ちの生徒に紛れ込んだことを知ったら、彼女はどう思うだろう?

「こっちだよ、先生」
マンションへと引っ張る。
「この辺りには慣れた?」
「まだ」
本当は庭のようなものだが、恵子クンと打ち合わせた設定から外れないようにしておく。
エレベーターを上がってインターフォンを押すと恵子が扉を開けてくれた。
「いらっしゃいませ、さあ上がって下さい」
俺はチョロチョロとふたりの脇を抜けて自分の部屋に戻ると、ヒラヒラして落ち着かない制服を脱ぎ捨てた。
いや、捨てはしないで、ちゃんとハンガーに掛けたけど……。
「にゃあ」
クロスケがまた俺の足に自分の匂いを擦り付ける。
「ただいま」
下着姿のまま黒猫を抱き上げる。
「おまえも、いい匂いがするね」
甘い香水みたいな匂いだ。
ゴロゴロ。
心地よさそうに喉を鳴らす。
子供の頃に飼っていた三毛猫を思い出した。
あれはもっと顔がデカかったけど、同じ真っ黒な顔をしていた。
気性が荒いけど家族には優しいヤクザ者みたいな猫だった。
最後には野良犬と戦って死んでしまったけど。
クロスケをベッドに置いてクローゼットから着替えを引っ張り出す。
やはりスカートしか入っていない。
仕方なく白のワンピースを着る。
中にはアイドルのステージ衣装みたいなドレスも入っていて『俺にいったい何をさせるつもりだ?』という疑問が浮かんだ。
「おいで、クロスケ」
ベッドの上で丸まっていた黒猫は頭と尻尾を起こした。
猫には人間の言うことを聞く猫と、聞かない猫の2種類がいる。
クロスケは幸いにも、前者らしい。
リビングに向かう俺の後ろをトコトコと付いて来た。

リビングでは純子と恵子が俺のプロフィール(偽)について話をしている。俺は猫を引き連れて恵子クンの隣に座った。
「いらっしゃいませ、先生」
ペコリとお辞儀をする。
「お邪魔してます」
純子も笑顔で応えてくれる。
「先生は、ずっとこちらの学校でしたの?」
恵子クンが俺に代わって質問してくれる。
「ええ、今年で8年になります。それ以前は公立の学校にいました」
「ご結婚は」
「いえ、まだなんです。なかなか機会に恵まれませんものですから」
俺はその言葉にホッとしたような、それでいて複雑な気持ちになった。
幸せな家庭を築いて貰いたいという思いと、誰のものにもならないでくれという思いが8対2ぐらいの割合で有ったから。
「先生、恋人はいないの?」
子供の振りをして無邪気に聞く。
「アヤメさん、そんなことを聞いたら失礼よ」
恵子がたしなめる。
「……ごめんなさい」
ソファーの上で小さくなる。
「いいのよ、いないわ、これでいいかしら」
どうして?
……とは、さすがに聞けなかった。

15分ほどの訪問で、彼女は帰って行った。
「綺麗な人でしたね」
「初めて会った時は、そんなでも無かった」
「彼女に聞かれたら、怒られますよ」
「でも、付き合ってるうちに綺麗になったよ。いまほどじゃないけど」
「おのろけですか」
「まあね」
「あの、一つ聞いていいですか? プライベートなことですが」
「なに」
「どうして、純子さんと……その、和解されなかったのですか?」
「そうだな。俺も仕事を選んだということなんだろうな。それに別れた女のことはなるべく思い出さないようにしてたからね」
「主任、『俺』は駄目ですよ」
「厳しいね」
肩をすくめて見せる。
「さあ、メンテナンスを始めましょう」
「了解」
俺はまた暗室のイカした棺桶の前でワンピースを脱ぎ捨てた。

ぬるい羊水に身体を浸す。
恵子クンが数値を読み上げる声が聞こえる。
いずれも平常値の範囲内だ。
自覚症状も無いのだから当然だろう。
BODYは、人間と違って体内を細かくモニター出来る。
ある意味、人間より洗礼された存在なのだ。
致死遺伝子を排除することにより不老(不死では無い)を実現さえしている。
しかし現段階では完全な存在では無い。
俺の場合これ以上の成長と生殖能力を失っている(有っても困るか……)。
増えもしなければ減りもしない、多様性も無い、個体で完結した種としては無いに等しい存在。
近い将来、BODYの技術が完成すれば、人類は次の進化へのステップを踏み出すことになるのかもしれない。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないが。
ただ、BODYは人が必要としたから生まれた。
これは間違い無い。

俺は俺自身のOSをチェックする。
瀬尾浩之のアルゴリズムが変化していた。
瀬尾アヤメへと書き換えが進行中ということらしい。
明日香クンの言っていた女性化だな。
変化は性衝動に関する部分が最も大きい。
♂の煩悩の大部分を失っている。
性的には未分化に近い少女になるのだから当然ではあるが……。
このまま「心」まで少女になるのかはわからない。
普通の性転換とはわけが違うからな。
マルチタスクな俺は、人事のように分析する。
予想としては、完全な少女にはなり得ない……。
だが、BODYが何処まで自動的にOSを最適化するのかは、開発にたずさわった俺自身にも謎だった。

「犬神ケミカルの犬神社長から主任に面会したいとの連絡が有りました」
シャワーを浴びてタオルで頭をゴシゴシ拭きながらキッチンに行くと恵子が受話器を置いたところだった。
「あたしに直接?」
怒られるので、『俺』は使えない。
「はい、明日ご自宅にいらして欲しいとのことです」
「何だろう、プロジェクトに関しての引継ぎは全部済ませたはずだが」
「私的なご招待のようです」
「……ロリコンとか?」
「違うんじゃないですか」
「何が狙いだ?」
「それより主任、裸でウロウロしちゃ駄目ですよ」
「はい」

もう一度白いワンピースに袖を通した俺は、子供部屋の隣の書斎に入り込んだ。
端末を立ち上げてメールをチェックする。
「山田室長だけか」
内容は当たり障りの無い挨拶文。
死人にメールする奴はいないから、以前の友人から来ることも無い。
山のようなメールと報告書をヒーヒー言いながら処理してたのも今は昔だ。
残念ながら、ここではBODYの関連資料も見ることが出来ない。ラボのネットワークは完全にクローズだからだ。
研究所のHPにアクセスするのがやっとだ。それも当たり障りのないもの。
そんなもの見てもどーしようもない。
プロジェクトから外れて半年、DEEPなDATAは俺の頭の上を素通りしていた。
研究者から研究材料になったのだから仕方が無い。
俺だってモルモットに研究内容をトクトクと説明したことなんて無い。
いまの俺ならラボの全データを数分でバックアップ出来るというのに、宝の持ち腐れもいいところだな。

一時間ほど調べモノをした後、いくつかのメールを出して端末をシャットダウンした。
「ラボに居た頃の方が、まだ暇を潰せたな」
あそこにはいろいろオモチャが転がっていた。
「そんなに暇なんですか、主任」
開けっ放しの扉から恵子クンが顔を覗かせている。
「まさか、宿題をやれとは言わないよね」
「有るんですか?」
「うん」
「じゃあ、やらないといけませんね」
「そんなの学校でやっちゃったよ、3分も掛からなかったから」
「早いですね」
「小学生の問題が早く出来たって自慢にもならないさ」
「先生が言ってましたよ『利発なお子さんですね』って」
「利発でも原発でもいいんだけど……手持ち無沙汰はどうしようもないよ」
「まるで定年退職したお父さんですね」
「似たようなもんさ」
「でも主任は若返ったのですから、ずっとマシじゃありません」
「ピーターパンになるというのは、案外つまらないことだって実感したよ」
足をブラブラさせる。
「あら、ピーターパンは男の子ですよ」
「じゃあ、ウェンディかな。どっちにしても、ずっと子供のままというのは夢というより呪いだね」
「呪いですか……」
「いつか王子様が現れてキスして貰えると解けるのかな」
「そうですね」
「でも、男とキスするぐらいなら、このままでもいいよ」
「それだと折角来てくれた王子様が可哀想じゃありません?」
「人の弱みにつけ込む奴なんか、放っておいていいよ」
「主任らしいお答えですね」
「瀬尾浩之のパーソナルは変化しても消えることは無いからね」
「ええ、絶対に消えません」
「さて、少し散歩でもしてくるかな」
「私もご一緒してもよろしいですか」
「もちろん」
俺は椅子から足を揃えて飛び降りた。
「天ぷらでも食べませんか?」
「おっ、いいねえ」
「でも、お酒は我慢して下さいね」
「わかってるよ」

その夜、天ぷら屋の親父に『お嬢ちゃん通だねえ』とうならせたが、まあ無難にこなせたろう。

翌日の放課後、俺は犬神マヤの隣に座っていた。
「さすがに乗り心地がいいね」
ベントレーに乗るのは、初めてだ。リンカーンのリムジンは何度か乗ったが、こちらに比べると米国的な下品さは隠せない。
「アヤメちゃんは、私の父をご存知なのですか」
「うん、直接会ったのは数回だけどね、マヤちゃんみたいな娘がいるなんて知らなかったよ」
「私も昨日、父からアヤメちゃんをお招きすると聞いてビックリしてしまいました」
「世間は意外と狭いんだよ」
「……でも、どうして父をご存知なのですか」
「仕事の関係でちょっとね」
「ああ、お仕事ですか……そうですよね」
まさか俺自身の仕事だとは思わないだろう。
マヤは常識的に判断して納得したようだ。
ベントレーは、高速を通ってから誰もが知っている高級住宅街に入って行く。
その中でも一際大きな屋敷の門を潜った。
学校から30分と言ったところか。渋滞に巻き込まれなければという但し書きが着くけど。
「固定資産税、高そうだな」
小学生らしからぬ感想を漏らす。
コンクリート打ちっぱなしの3階建で、キューブをバラバラに並べたような形だった。さぞ高名な建築家の作品なのだろう。候補は何人か挙げられるが、いかんせんすべてが電子化されているわけでは無いので、俺の手持ちのデータベースでは突き止めることが出来なかった。
「どうぞ」
車寄せ(個人家に無いぞ、普通)でドアが開かれる。
なんとメイドさんが開けてくれた。
やるな犬神喜一郎。
まあ、それはいいとして。
「瀬尾さま、どうぞこちらへ」
「あの、アヤメちゃんだけですか」
俺の後ろからマヤが車を降りる。
「はい、お嬢様」
「マヤちゃん、また後で」
手を振ってメイドさんの後に付いて行った。
「靴、脱がなくていいの?」
「はい、そのままお上がり下さい」
カーペットの敷かれた廊下を歩く。
本当に個人の邸宅なのだろうか?
ふと、そんな疑問が浮かんでしまう。
黒い腰板と白い壁。
装飾の施されたランプを模した電灯。
成金とは違う贅沢さを感じる。

メイドさんが大きな扉を開けると、そこに犬神喜一郎がいた。
どうやらここが応接室らしい。
天井の高い部屋だ。シャンデリアも高そう。メーカーは直ぐにわかったので、購入推定代金も弾き出せるが、そんな野暮なことはしない。
「やあ、いらっしゃい」
犬神社長はソファーから立ち上がった。
この姿になってから会うのは初めてだ。
その前だって、顔見知りに毛の生えた程度だが。
「わざわざ呼び立ててしまって申し訳無いね」
40代半ばだったはずだ。髪を一部の隙が無いほど綺麗に撫で付け、高級ブランドのスーツをさりげなく着こなしている。
「お久しぶりです、犬神社長」
俺は帽子を取ってペコリと頭を下げる。
「本当に瀬尾くんなのか? こうしてキミを目の前にすると信じられなくなるよ」
「わたしは瀬尾浩之と同一ではありません、いまは瀬尾アヤメです」
俺は、犬神社長と向かい合うソファー座った。
「そしてBODYの1号素体です」
「確かに。キミだけでも生き残ったのは、我々にとって大きな福音だよ」
「どうでしょう。こう見えても、人類の敵かも知れませんよ」
「いや、人が生み出した子孫は、やはり人だよ。まったく異なる存在とは成り得ない」
「人がすべて犬神社長のように考えてくれればいいですが」
「そうだな、いずれ人はキミの眷属と戦うことになるのかも知れない」
「争いのネタとしては魅力的ですからね」
「BODYは、確実に増える。我々が開発から手を引いても誰かが作りだし増やしてしまう。無論、我々が手を引くことは有り得ないがね」
「そうですね、基礎概念は既に発表済みですから、アーキテクチャーが大きく異なる兄弟は登場しないでしょう」
「間違いなくキミの名前は歴史に残る」
「だとしたら、どんな評価がされるんでしょうね、興味があります」
俺の身体にこのソファーは大きいな。深く座ると膝が曲げられない。
「楽にしたまえ」
「はあ、すいません」
結局、膝を伸ばしたまま深く座る。
「そうだな、神か悪魔か、たぶんキミはキミ自身の目で確認することになるだろう」
「犬神社長、わたしは不老ですが不死では無いですよ」
「限りなくそれに近いと認識しているが」
「ただの子供ですよ」
「―――そう言えば、マヤと同じクラスだそうだね」
それまでと違って歯切れが悪くなり、ギコチ無い笑みを浮かべた。
「ええ、隣の席です」
「マヤが友人の話しをしたのは初めてでね」
「聞き覚えの有る名前で驚いたと」
「まあ、そのとおりだ」
どうやら、こちらが本題らしい。
「とてもしっかりしたお嬢さんですね、それに頭がいい」
「マヤは大人の中で育った所為か、子供らしさに欠けてるところがあってね」
「でしょうね、わたしと話しが合うぐらいですから」
「キミはあの子が、私の娘だと知っていたのか?」
「いえ、偶然です。他の誰かの意図だとしたらわかりませんけど」
「たぶんそれは無いと思う」
「そうですね、誰かの利益を生むとは思えない」
「いや、少なくともマヤの利益にはなっているよ。あの子はキミという友を得たのだから」
「正体を知ったら、びっくりするでしょうね」
「どうだろうな」
「今日、わたしをここに呼んだのは、お嬢さんの為ですね」
「正直に白状すればそういうことになる」
「何かご心配でも?」
「あっ、いや……そういうわけでは」
「ご心配なさらなくても、お嬢さん相手に性的衝動を満足させたりはしませんよ」
「いや、キミがそんなことをする人間だとは思っていない」
「何か、知りたいことでも」
「ああ、娘の様子をね……担任からはクラスに上手く溶け込めていないという報告を受けていてね」
「苛められているんじゃないかと?」
「まあ、そんなところだ」
「わたしが見る限りそれは無いと思います」
「そうか……」
「ただ、利発過ぎるが故に浮いた存在にはなっています」
「―――そうか」
「それに寂しさを我慢することの出来る子ですね」
「だろうな」
「我慢出来るから我慢してしまう」
「私と妻の責任だな。忙しさにかまけて、あの子とのスキンシップに欠けていたのは本当だ」
「いまからでも遅くは無いですよ」
「―――いまからでも?」
「マヤちゃんの友人が言ってるのだから、間違いは有りませんよ」
「そうだな。私からこんなことを言うのも変なのだが、マヤのいい友達になってやって欲しい」
「ええ、あの子がそれを望むのならば」
「望むだろう。さてどうだね、マヤと一緒にお茶でも」
「ええ、いただきます」
ビジネスで辣腕を振るい敵も多い犬神社長も人の親ということだ。そしてそれは悪いことでは無い。

午後のお茶会の後、犬神社長は会社に戻り、俺はマヤの部屋へと招かれた。
「かわいい部屋だね」
俺のイメージするところの少女漫画に出て来そうな部屋だった。少々広過ぎるけど。
「母の趣味なんです」
恥ずかしそうに答える。
「いまも海外なの?」
「はい」
マヤの母親は、全国展開をしているブティックのオーナーだった。以前そんなことを小耳に挟んだことがある。手持ちのDATAを検索すれば会社四季報+帝○データバンク程度の情報はある。
「海外で、かわいいものを見つけると買って来ちゃうんだ」
「そのとおりです」
「マヤちゃんは、もつとシンプルなものが好きなんでしょう?」
「わかります?」
いま着ているエプロンドレスも彼女の趣味では無いのだろう。
「何となくね」
「母だって自分のモノは機能第一で統一してるんですよ」
「マヤちゃんにもしっかり遺伝しているわけだ」
俺はベッドに腰掛ける。
あと1歩でキャノピーが付きそうなデザインをしていたが、天蓋はさすがに思い止まったらしい。
「アヤメちゃんは、こんな部屋はお嫌いですか」
「嫌いじゃないよ……」
前の身体だったら、きっと落ち着かなかったろうが、いまはそんなでも無い。これもOSの書き換えの効果か。
「でも、ちょっと立派過ぎてあたしには似合わないね」
「そんなことありません」
力強く断言されてしまう。
「ありがとう」
「アヤメちゃんも着替えませんか? 私だけこんな格好では不公平ですもの」
マヤはクローゼットから、色違いのエプロンドレスを取り出した。
「え、あたしも……」
「はい」
マヤは微笑んでうなずいた。

玄関の扉を開けると、恵子クンは口元を押さえてフリーズした。
「そんなに驚かなくても……」
「あっ、いえ、とってもかわいかったものですから」
やっと再起動した。
俺は、マヤの部屋で着替えさせられ、そのままの格好で夕食をご馳走になり、そのままの格好で送り届けられたわけだ。
「お似合いですよ」
「山田室長に見せてやりたかったよ」
エプロンドレスのスカートを広げた。頭には赤いリボンまでオプション装備されている。完璧だ。
「きっと、喜ばれたでしょうね」
「あいつはロリコンだからな、メンテ始めてくれ」
「はい、用意は出来ています」
恵子クンは、そう言って俺の手を取った。
「その前に、記念写真撮りましょう」
「えっ……」
俺は、ズルズルとリビングに引っ張って行かれた。

子供の世界というのは、科学ほどは進歩していないらしい。学校の中は、俺が洟を垂らして駆け回っていた時代といくらも変化していない。
だからって大人の世界が、そう進歩しているのかと言えば、人間関係などというものは、反りが合うか合わないかの違いでしか無いから、幼稚園の砂場からそれほど大きくは進化していない。
場合によっては、こちらは教師という存在があるだけまだマシかも。勿論それはこの学校だから言えるのかもしれないが……。新聞を賑わす学級崩壊の記事を見るに付け、教師にならなくて良かったとクロスケの頭を撫でながら思ったりしたわけだ。
さて、転校して数日が経つと教室の中の大体の相関図が見えて来る。クラスには男女それぞれふたりずつのリーダーを中心にした四つのグループと、犬神マヤとか、親父が潰れそうな一流商社の部長だか係長だかの太った息子とかの群れには入らない(入れない)それ以外に別れていた。
俺も当然、それ以外のグループ(集まりでは無いか……)に分類される筈だったが、転校生と言うファクターが、ラベリングに待ったを掛けているらしい。
俺としては、快適に2度目の小学生生活をエンジョイ出来ればいいので、必要以上の接触を避ける意味でもさっさと分類して欲しいのが本音である。
DATAを取るだけなら、何も狂ったように同級生と遊び回る必要は無いわけで、後はただのんびりしていればそれで良しである。

「あの、瀬尾さんて外国にいたことが有るって本当なの?」
フレームレスの眼鏡を掛けたお下げ髪の女の子が、遠慮がちに話し掛けてきた。他のクラスメートが俺に対する興味を失いつつある中において、いまだそれを持続させていたらしい。
「うん、欧米を何国かね」
無下に追っ払うのも可哀想なのでちゃんと応える。
「いいな、あたしハワイにしか行ったことが無かったから」
俺が子供の頃は、本州からも出たことは無かったけどね。
「でも、仕事だからね、ディズニーランドにも行ったことは無いよ」
スミソニアン博物館ぐらいはウロチョロしたけど、ネズミの楽園には興味が無かった。
「ふーん、勿体無いね」
この子の名前は確か、葉月美和。
クラス全員のプロフィールは既にオツムの中にインプット済みだ。
割と庶民的な感覚の持ち主のようだが、その実、某大手スーパーチェーンのオーナー一族の一員である。きっと家でちゃんと躾られているのだろう。いまどき成金も流行らないけどね。
今度、株をやる時には買っておこう。
「瀬尾さんて、あたしたちと何処か違うよね、あっ勿論、変な意味じゃないよ」
こちらが本題らしい。
「そう?」
まあ、元が30代も中盤の男なのだから、異質さで誰にも引けは取らない筈だ。
「犬神さんも近寄り難い雰囲気があったけど……瀬尾さんは似てるけど、ちょっと違うんだよね、上手く説明出来ないけど……」
「人間、他人とは何処か違うものだよ」
「それに、言ってることが難しいかな」
「そう」
俺から言わせれば、クラスメートの言葉の方がよっぽど難しい。
「でも、大人っぽいってわけじゃないもんね、こんなにかわいいし」
「そう……」
大人っぽいと言われるなら予想の範囲内だが、もしかして俺の予想以上にOSの書き換えが進行しているのか?
「どうしたの?」
「あっ、いや、何でも無いよ」
「瀬尾さんと犬神さん、頭がいいところは同じだよね、あっ、でも体育は瀬尾さんがダントツだね」
「―――あれは」

ラベリングが遅れている原因はそこにも有った。
体育の時間である。
ずいぶんと手を抜いたつもりだったのだが……。
跳び箱の時にちょっとした弾みで、ムーンサルトを決めてしまったのだ。
しまったと思った時には、もうマットの上に立っていた。
以来、体育教師とクラスの俺を見る目が変わってしまった。
目立つのは得策では無いのは分かっていたのだが、やってしまったことは、どうしようもない。
後悔先に立たず、フクスイという坊さんが旅に出たままお盆になっても帰らなかった。
覆水、盆に帰らず。
……それは、まあいいとしてだ。
件の体育の後、純子にも……。
「アヤメさんは、体操か何かやっていたの」
と、聞かれる始末。
「いえ、仮面ライダーの真似をして遊んでたぐらいですよ」
「あら、ずいぶんと古いのを知ってるのね」
軽率な答えを返して、
『しまったあ!』
心の中で叫んだところは、しっかりと明日香クンにモニターされたりしたわけだ。
「先生、仮面ライダーっていっぱいいるんですよお」
「そうなの」
「そうなんです」
「そう言えば、最近もコマーシャルを見たような気がするわ」
後で最近、実際、やっていたことを知る。
どちらかというと俺の方が疎いらしい。
「体育の大山先生が、『体操をやらないかな』っておっしゃってたわよ」
「やだなあ、先生、まぐれですよ」
「先生もアヤメさんの勇姿を一度見たかったな」
「だからまぐれなんですってばあ……」
その場は、何とか誤魔化し(正確には逃げ出し)た。

「……あれは、たまたまなのたまたま」
美和に顔を近付けて念を押す。
「そう、それはわかったから」
少し焦っている。
「ねえ、瀬尾さん、今度、外国のお話を聞かせてくれない?」
美和がモジモジしながら言う。
「まあ、構わないけど」
「じゃあ約束だよ」
そう言うと、チャイムが鳴る前に自分の席に戻って行った。

図工の時間も純子の担当だった。
「今日は、お隣の人の顔を描きましょう」
ところで、純子は絵なんて描けるのか?
見たこと無いけど……。
真っ白い画用紙を見ながら、そんなことを考えてしまう。
「アヤメちゃん、あのちょっとこちらを向いて貰えます?」
マヤは既に臨戦体制に入っていた。
「ああ、ごめんごめん」
「私たちも皆さんみたいに机を向かい合わせにしませんか」
「それがいいね」
遅れて机を動かす。
「かわいく描いてね」
「……それはちょっと保証出来ませんけど」
「はは、変なプレッシャー掛けちゃったかな」
「アヤメさん、お喋りしていないで、手を動かさなければ駄目よ」
純子にバックを取られていた。
「はい」
おとなしく俺は筆箱から2Bの鉛筆を取り出した。
スケッチは、この身体になってから始めた趣味みたいなものだった。
ラボで実験の一環として行われそれ以来、面白くて画板をぶら下げてウロウロするようになっていた。前の身体よりずっと上手に描けるのが良い。
本当は、アミノ酸の組換えの方が好きなのだが、いかんせんこの身体では機材が使い辛くて……。
そのスケッチもこっちに来てからは、やって無かったけど……どーせやることが無いし、また始めるのもいいかも。
「マヤちゃん、笑って」
「こうですか」
ニコッと笑う。
「そう……はい、ありがとう」
マヤの顔を脳裏に写し取って、それを画用紙の上に再現する。
手をプロッターのように動かして描く方法が、BODYには最も適した描き方だった。
なんたって手が汚れなくて済む。
「アヤメさん……」
純子の声が変に緊迫していた。
「えっ?」
まだ、後ろにいたのか。
「あなた、絵も習ったことがあるの?」
何処の絵描きがこんな描き方を教えるのだろうか。
強いてあげるなら製図用プロッタだが。
「いえ、ぜんぜん」
「だって、あなたこれ……」
純子の指が俺の描いた絵を指している。
いまさらながら『しまった』だ。
また、やり過ぎてしまったらしい。
ラボでは……、
『主任の絵は、DPIがちょっと荒過ぎますね』
と、しか言われてなかったから。
この白黒写真みたいな絵を、普通の人間が見てどう思うかなんて……すっかり失念していた。
少なくとも10歳の女の子の絵では無いか……。
「ははは、ちょっと失敗かな」
取り繕うとしたが時既に遅し。純子の後ろにはクラスメートの姿がちらりほらり。
「すげー上手い、なにこれ!」
最初の声を皮切りに、俺の周りにはクラスメートでいっぱいになってしまった。
「絵というのは、そっくり描けば上手いってわけでも無いんだよ、キミたち」
俺の弁明は誰も聞いてくれない。

そんなわけで、3分ほどで完成させたマヤの肖像画は、黒板に貼りつけられ、俺にはまた新しい画用紙が渡された。
「アヤメさん今度は、色を着けてみて」
後ろに貼り付いたままの純子にそう命令された。
「はあ」
俺は買って貰ったばかりの新しい絵の具と筆のセットを広げた。
「下書きはしなくていいの?」
「いいです」
さて、いまさらヘボく描いても説得力が無いだろうから、このまま描くことにする。
「あの、他の人たちのところは見なくていいんですか」
一応、聞いてみる。
「後でまとめて見るからいいわ」
おいおい。
仕方なくパレットに絵の具を適量ひねり出した。色が1670万色ほど足りないがまあ、手持ちの12色で何とかしよう。
「今度は身体も描いていいですよね」
「どうぞ」
カラーの絵の場合は、1色ずつ順番に置いて行く。
これまた、基本はプロッタと同じだ。
最後にふんわりと色をぼかせば、エプロンドレスのマヤの出来上がりだ。
今度は何度か筆を洗ったので10分ちょっと掛かった。
「凄いわね……」
「本当にお上手ですね」
「そうかな」
ラボの人間からは……、
『画像処理の速度がワークステーションより落ちますね』
『やはり色数がいまいち少ないですね』
『拡縮は出来ないんですか』
というよーな感想しか言われていないので誉められてもピンと来ない。
てっきり、たいしたことが無いんだと思っていた。冷静に考えてみれば、目は引いてしまうか。
「もう1枚、描いてみましょうか?」
純子はニコニコして俺の肩に手を置く。
「先生、あたし疲れました」
正直なところ手を使い過ぎた。
左手ならいけるけど、曲芸は次の機会にとっておこう。
「そうね、2枚描いたから、アヤメさんはこれで終わりにしていいわ」
純子は俺の最新作を持って教壇へと戻って行った。
「ご苦労様です」
「今度は、マヤちゃんも落ち着いて描けるね」
「はい」
マヤは、鉛筆を動かし始めた。

「主任、凄い絵を描いたんですって」
保健室でチェックをしながら、明日香クンもニコニコしていた。
「この、ビクッとしたのはメンタルですか?」
グラフのピークを指し示す。
「そう、先生にびっくりさせられただけだよ」
「職員室は、主任の絵で持ちきりですよ」
「キミは俺の絵を見たことがある筈だが」
「あたしが見たのは、ラボのパイプの束の絵でしたから、まあ主任らしいモチーフだなと思いましたよ」
「ああいう風景が好きなのは確かだよ。どこに繋がってるか想像するとワクワクしないか?」
「普通はそういうこと思い付きませんよ」
「そうかな」
「マヤちゃん、とってもかわいく描けてましたよ」
「写真の方がもっと綺麗に写せるよ」
「絵と写真は別でしょう?」
「さあね、芸術には興味が無いんでね」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
「引っ掛かる言い方だね」
「はい、異常無しです」
俺に反論を許さないまま、保健室を追い出された。

「ねえ、ねえ、瀬尾さんて絵とか習ってたの」
葉月美和が教室に戻った俺の隣に貼り付いた。
「いや、ぜんぜん」
「へえ、それなのにあんな上手に絵が描けるんだ、スゴイよね、犬神さんもそう思うでしょう?」
「ええ、私もびっくりしました」
俺は両側から褒めちぎられる。
「こんなに誉められたことが無いから、なんて応えていいかわからないよ」
「えっ、そうなの」
「そうなんですか」
今度は両側から驚きの声が挙がった。
だいたい山田室長などからは、絵を描いている俺の後ろから、
『キミの絵には心が入って無いね』とか、批評されていたのだから……。
おかけげで余計な失敗をしちまった。
「絵の話はそれぐらいにしよーよ」
「えっ、どうして?」
「誉められるのって慣れて無いから、こそばゆいんだ」
「すいません、私、はしゃぎ過ぎちゃいました」
マヤの表情が曇ってしまう。
「あっ、いや、謝るようなことじゃないよ、誉められるのは基本的に嬉しいんだから」
「じゃあ、いいじゃない」
美和は唇を尖らせる。
「何事も自分自身に厳しくしなきゃね」
「わかります」
「ふーん、うちのお父さんみたいなこと言ってる」
ふたりはそれぞれの感想を述べた。

放課後、さあ帰るかというところを純子に呼び止められた。
「アヤメさん」
「はい、何ですか」
とてとてと、彼女の前に行く。
髪が長くスラリとした長身。ファッションモデルでも十分に通用するだろう。こんなにいい女になるんなら、ちゃんとよりを戻しておけば良かった。
―――煩悩の火はすべて消え去ったわけじゃないらしい。
「図工の時間に描いた絵なんだけど、教頭先生が『ぜひ児童画コンクールに出品したい』っておっしゃってるんだけど、どうかしら」
「えーっ、あれをですか……」
ああいう子供っぽく無い、技巧に走った絵に山田室長のような感想を漏らすお偉いさんの姿が見てとれる。
大人は、図工の教科書に載ってるよーな、鼻の下の凹みを実線で黒々く描いて、顔面を紫色で塗りたくったような荒々しくも何処か光る絵(俺から見れば当時から奇妙な絵ではあった……)が、お好みなのでは無いだろうか。
「いいでしょう、アヤメさん」
「でも、転校生としてはあまり目立ちたく無いんですよね」
「そうか、アヤメさんの言うことも一理有るわね、もしかして……」
辺りを見まわしてから、腰を落として俺に視線の高さを合わせてくれた。
「いじめられてるの?」
声を潜める。
「あっ、いえ、それは無いです」
俺もつられてしまう。
「本当に?」
「本当に本当です」
「わかったわ、絵の方は保留にしておくわ、それから何か有ったら必ず先生に相談するようにしてね」
「はい、ありがとうございます」
「―――アヤメさんの目、あたしの知ってる人に良く似ているわ」
「えっ……」
「あっ、いえ……何でも無いの忘れて……じゃあ、気を付けて帰りなさい」
純子はそう言って、教室を先に出て行った。

帰りの地下鉄は、葉月美和と一緒だった。偶然じゃなくて彼女がわざわざ待っていてくれたのだが。
「コンクールへの出品、断っちゃったの?」
「絵を描くのは好きだけど、描かされるのはそんなに好きじゃないんだ」
「でも、図工の時間に描いた絵を出すだけでしょう?」
「あれはね、でも、新しいのが欲しいなんて何時言われるかわからないし」
「うん、それはあるかも」
「それに目立つのも嫌いなんだ」
「そこは犬神さんと同じだね、ふたりの雰囲気が似てるのはその所為もあるのかな」
「美和ちゃんは、どうしてあたしに興味を持ったの?」
「あたしもアヤメちゃんて呼んでいい?」
「どうぞ」
「アヤメちゃんが転校して来る前、あたし犬神さんとお友達になりたかったの」
「なれば良かったのに」
「でもね、どうしても近付けなかったの」
「マヤちゃんは優しい子だよ」
「うん、あたしも最近そう思った……と言うか、クラスのみんなが気付いたというところかな。だって、アヤメちゃんと話してる犬神さん、本当に楽しそうなんだもん」
「あれがマヤちゃんの本当の姿だと思うよ」
「うん、あたしもそう思う
「マヤちゃんも本当は、誰かが話し掛けてくれるのを待っていたと思う」
「いまなら、あたしもそう思えるよ」
「じゃあ、美和ちゃんとマヤちゃんの橋渡し役は十分に果たせたわけだ」
「それだけじゃないよ、あたし、アヤメちゃんとお話出来て本当に良かったもの」
「そう?」
「そうだよ、だってアヤメちゃんとお友達になれたんだよ」
「それは、あたしも同じ」
そこで俺の降りる駅に到着した。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、ばいばいアヤメちゃん」
俺は大人の間を潜ってホームへと降りると美和の乗った地下鉄は、ドアを閉めて走り出した。

「お帰りなさい、主任」
玄関の扉を開くと明日香クンがいた。
「ただいま―――って、どうして、キミがここにいるんだ?」
「恵子先輩から、留守を任されたんですよお」
「留守?」
「ラボで緊急の会議が召集されているんです。ですから今日はあたしが主任の面倒を看てあげます。まずはおやつにしますか、それともメンテがお先ですか」
「ふーんそうなんだ、じゃあメンテを先にしてくれ」
とりあえず靴を脱いで中に入った。
緊急の会議か……いったい、何だろう。
俺は自分の部屋にバッグを下ろして考える。
恵子クンまで呼び出したということは、かなり重要度の高い会議だ。
ラボの慰安旅行の行き先を決める会議(あれはあれでモメるのだが……)とは、わけが違う。
制服を脱いで、裸のままメンテナンスルームに行こうとしたが、部屋を出る前に思い留まってバスタオルを身体に巻き付けた。

「主任、かわいい」
メンテナンスルームでは、明日香クンが予想通りの反応をする。
これが裸のままなら、きっと彼女からもお説教されたろう。
「始めてくれ」
俺は、バスタオルを落としていつものようにイカス棺桶の中に入り込んだ。
ぬるい羊水に身体を浸す。
「メンテナンス開始します。スキャニングON」
いつもの恵子に代わって明日香の声が響く。
読み上げる数値に変化は無い。
ほんの数日で、学校という環境に順応したらしい。
次の2号素体なら、それを10分程度まで縮めることが出来るだろう。
アプローチへのアルゴリズムは既に完成している。
俺の身体である1号素体には間に合わなかったが、次に組み込むまでには500万通りのシミュレーションをパスするだろう。
「肉体は申し分無いですが、メンタルがいま一つ安定に欠けますね」
いきなり子供になったんだから、それぐらい赦してくれ。
ゆっくりと目を閉じる。
疲労は急速に羊水に溶け出す。

「データの集積完了です。上がって下さい」
バシャッ!
ヌレネズミになって、棺桶から顔を出す。
「ふう」
「ご苦労様です」
「どう、何か問題有る」
「特に問題は無いですね、メンタルのぶれも予想の範囲内ですから」
「一応は良好か」
「一応じゃ無くて完璧に良好です」
明日香がバスタオルで頭を拭いてくれる。顔を擦られるのでネコみたいに目を閉じた。
「直ぐにシャワーを浴びるから、いいよ」
「じゃあ、一緒にお風呂に入りましょうか」
「えっ!?」
「何をそんなに驚いてるんですか、女同士ですよお」
クスクス笑う。
「確かに女同士だけど……」
「だから、ノープロブレムですよね」
「そんな、やっぱり、ちょっとマズイよ」
「大丈夫ですよ」
そのままバスタオルでくるまれ、明日香クンにかかえられて羊水を滴らせながらバスルームに運ばれた。

「いいのかな」
俺は、先にバスタブに身体を沈めてブツブツ呟く。
恋人同士ならともかく……。
かつての部下とお風呂に入るというのは、何か不倫しているみたいで……でも、お互い独身だけど……抵抗が有る。
「主任、ちゃんと肩まで入ってますか?」
明日香は、タオルで隠すよーなこともせずバスルームに入って来た。
「わっ」
慌てて顔を横に向ける。
「どうしました主任?」
眼鏡を外している所為か、彼女は必要以上に俺に顔を近付けた。
「だって、キミがそんな格好で入って来るから……」
「あたしが、着痩せしてるんでビックリしちゃいました? 本当は結構、胸が大きいんですよ」
「別にそういうわけじゃなくて……」
明日香は、俺の話を聞いてるのか聞いて無いのか。
シャワーで身体を流すとバスタブに入って来た。
「わっ、もう出るよ」
「駄目です」
肩を掴まれて、明日香に後ろから抱っこされて肩までお湯に浸けられてしまう。
「まだ、ちゃんと暖まって無いでしょう?」
「でも……」
とは、言っても逃げ出すことも出来なかった。
「ちゃんと100まで数えないと駄目ですよ」
「……100って」
完全に子供扱いだ。
「暖まったら、シャンプーの仕方を教えてあげますね」
明日香の唇を髪に感じた。
「女の子の肌はデリケートなんですから、ゴシゴシ洗っちゃ駄目なんですよ」
「……うん」
俺は諦めて力を抜く。
背中に明日香クンの柔らかい身体を感じた。

バスルームで、頭のてっぺんからつま先まで洗われた俺は、ドライヤーまでかけられてやっと開放された。
彼女は裸のままだったので俺は目のやり場に最後まで困った。
「主任、おやつにショートケーキが有りますよ」
「うん、一緒に食べようか、お茶はあたしが入れるから」
「大丈夫なんですか?」
「恵子クンに教えて貰ってるから心配ご無用だよ」
「じゃあ、お願いしまーす」
そんなわけで、俺たちはリビングでちょっと遅目のお茶会を始めた。お茶会というのはここに来てからの習慣だな。
「へえ、主任の入れてくれた紅茶とっても美味しい」
「その『へえ』という感嘆詞は余計だぞ」
「だって、意外じゃないですか、あの主任が紅茶をいれてくれるなんて」
「キミはあたしをいったいどっちの人間として見てるのかな?」
「ふたりで一つですよ」
「なるほどね」
湯上りの明日香クンは普段着に着替えている。
ミニスカートにサマーセーターで、やっぱり中学生に見える。
「主任、どうすると美味しくいれられるんですか?」
「温度と濃度をちゃんと管理すれば味は理想的なところへ持って行ける。そんなに難しくないよ」
「普通は、その2点が難しいんですよ」
「そうかな、見ればわかるけど」
「それってBODYの能力なんじゃないですか」
「いや、昔から目分量で温度が測れたよ」
「凄いですね」
「最近まで、誰でも出来ると思ってたんだけどな」
「そういう特殊能力をプラグインにしてあたしにも分けてくれないかな」
「あまり使わないと思うけど」
明日香クンの買って来てくれたイチゴのショートケーキを口に運ぶ。
「美味しいね」
「前は、あまり甘いものを食べませんでしたよね」
「別に嫌いだったわけじゃないよ、単に食べる機会が無かっただけさ」
「そうですか、山田室長なんか毎日食べてましたよ、ケーキとかお饅頭とか、あたしも良くお相伴に預かってましたけど」
「この歳になると自発的にそういうものは食べるのは気恥ずかしくてね」
「山田室長と一緒にされるのが嫌なだけなんじゃないですか」
「ああ、それは有る」
「そんなに嫌っちゃ可哀想ですよ」
「別に嫌っちゃいないよ、一緒にされるのが迷惑なだけさ」
「口にクリームが着いてますよ」
明日香クンの指が俺の唇を拭う。
「……ありがとう」
「か……かわいい」
いきなりギュッと抱き締められてしまう。
「わっ!」
「主任、かわいい」
「苦しいって……明日香クン」
「あは、ごめんなさい……主任が、あんまりかわいかったから、つい」
「潰れるかと思った」
「もう、大げさなんですから」
「そんなこと無いよ」
明日香クンに抱かれて猫みたいにデロンとなる。
「会議……」
「えっ……」
「恵子クンが呼び出された緊急会議の議題って何なの?」
「あたしも詳しくは知らないんですけど、財団がらみみたいですよ」
「アガペリアか……」
「ええ、財団の評議委員が来日したとかしないとか」
「いったい何なんだろうな」
「恵子先輩まで呼び出されたんですからプロジェクトの根幹に関わることでしょうね」
「議題がわかれば話は早いんだけど」
「そこまではさすがに……」
「わからないよな……明日香クンのレベルじゃ」
「カチンと来る言い方ですね」
「ごめん、ごめん、そう言う意味じゃないから」
「じゃあ、どーいう意味ですかあ」
明日香クンの手が俺の脇の下に滑る。
「あっ、くすぐっちゃ駄目だって!」
「コチョコチョコチョ!」
「ひっ、あああ、駄目っ!」
ソファーの上でヘロヘロになるまでくすぐりまくられた。

「主任、ちょっとレポートまとめるの手伝ってもらえます」
ソファーで伸びてるところに明日香クンがノートパソコンを持って来る。
「もしかして溜め込んでる?」
むっくりと身体を起こす。
「えへへへへ」
頭を掻く。
自分の前に置かれたサブノートパソコンを広げてスイッチを入れた。
「おいおい、転校初日の報告書まで未処理だぞ」
「明日まとめて取りに来ることになってるからいいんです」
「直接、取りに来るんだ」
「ええ、それがいちばん確実で安心ですから」
「この時代にね」
「この時代だからですよ、室長なんかここに端末を置くのでさえ嫌がったんですから」
「ここをハッキングしても何も出て来ないぞ」
「何か出たら困るんですけどね」
「おい、未処理のファイルの方が多いぞ」
「えへへへへ」
「まさか、全部やれとか」
「出来るだけやって下さい」
明日香は、既に自分のノートパソコンを広げてキーを叩き始めていた。
俺も仕方なく未処理のファイルを開いた。

「すごーい、やっぱり主任は凄いですね、あれだけの量をたった2時間で処理しちゃうなんて」
「たいしたこと無いよ、キーボードの入力が足を引っ張らなきゃ、もっと早く終わってるよ」
「すると、外部へのIOポートを身体に取り付けるともっと便利になりますね」
「知らないの? もう付いてるよ」
「えっ、お風呂に入った時にはそんなもの無かったですけど」
「ここだよ、ここ」
明日香クンに指を開いて見せる。
「指ですか?」
「そういうこと、外からは見えないけど、専用機器で接続が可能だよ」
「へえ、知りませんでした」
「ここは、俺……いや、あたしと恵子クンが担当していたからな、他のスタッフもファイルに目を通していなければわからないだろう」
「他の担当部分なんて見ていられませんよ、スペックを完全に把握している人なんていないんじゃないですか」
「いや、ここにいるよ」
自分を指差す。
「えっ、そうなんですか」
「実験でラボのスパコンと繋いだ時にライブラリーは全部吸い取ったから、素材の発注価格まで押さえてるよ。ただ、最新データは無いけどね」
「ふえー、凄いですね」
「いや、データを持ってるだけならラボの連中だって同じだよ」
「持ってると知ってるじゃ全然違いますよ」
「まあ、調べてる時間はロスしなくていいけどね」
「さて仕事が片付きましたから、夕食の準備でも始めますか」
明日香は、袖をまくった。
「ちょっと質問」
「何ですか?」
「もしかして、明日香クンが作るの?」
「そうですよ、それが何か」
「いや、大丈夫なのかなと思って」
「何を心配してるんですか、これでも調理実習では鍋奉行と言われたんですから」
「何時の話?」
「中学生の頃に決まってるじゃないですか」
「調理実習で鍋を作ったんだ」
「カレーですよ」
「どうして、鍋奉行なの?」
「さあ、同じ班の人にそう言われだけなんで」
絶対にいい意味で言われたんじゃないと思うけど……。
「主任はゆっくりとアニメでも見ていて下さい」
張り切ってる明日香クンに余計なことも言えず、キッチンに意気揚揚と行進する彼女をソファーの上で見送った。
「大丈夫かな」
以前、ポテトチップをご飯にかけて食べてるのを見たことが有ったが……。

そう言うわけで、夕食は外食になった。
「すいません、主任」
「外では、アヤメ」
俺たちは、タクシーの後部座席に納まっている。
小学生にペコペコしている大人の女……運ちゃんの目にどう映っているかは謎だけど。
「アソコで焦げるかな普通」
「さあ」
たぶん、焦げるようなことしをしたから焦げたのだろう。
ラボのスタッフは良く言えば独創的な人間(悪く言えば奇人変人)ばかりなので、やや一般常識に欠ける傾向に有る。
卵を見ながら時計を茹でるニュートンほどでは無いが……近いものはある。
外から見れば俺も紛れも無くその一人なのだろうけど。

「高そうな……お店ですね」
タクシーを降りるとそう呟いた。
目の前の店は堂々とした高級料亭のたたたずまいを見せている。
かわいい小学生の女の子である俺と中学生みたいな明日香クンのコンビよりは、政治家のオッサンたちの方がしっくり来る場所だ。
「高いよ」
「でも、あたしそんなにお金は……」
「大丈夫だよ、マヤちゃんのオゴリだから」
「じゃあ、さっき電話していらしたのは、犬神社長のお嬢さんに?」
「そうだよ。マヤちゃんに事情を話したら、ここを紹介してくれたんだ」
「さすが、犬神ケミカルの社長令嬢」
「親父の会社は関係無いよ、純粋に彼女がこの店の親会社の大株主らしい」
「えっ?」
「とにかく、ただ飯に有りつけるわけ」
「はあ……」
「さあ、入ろう」
俺が先頭に立って、店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
店員さんというよりは、若女将と言った感じの人が出迎えてくれた。
「瀬尾様でいらっしゃいますね」
「はい」
「どうぞこちらへ」
こちらから名乗るまでも無く俺たちは奥へと案内された。
「主任、あたし居酒屋以外で入口で靴を脱ぐ料理屋さんは初めてですけど」
明日香クンが俺の耳元で囁く。
「箸が使えるなら問題無いよ」
そう言ってウインクした。

渡り廊下を通って離れらしき建物に通された。
純和風の数奇屋建築で、なかなか上品だ。
「こんばんわ、アヤメちゃん」
襖が開かれると、座敷の下座に犬神マヤがチョコンと座っていた。少し離れて隣には初めて見る美人がいる。
「マヤちゃんも来てくれたんだ」
「お邪魔かとは思ったんですけど、こちらへは一度来るようにと再三言われていたものですから、この機会にと」
彼女はしっかりと正装。制服を着ている。
「あたしも、また一緒に夕食が食べられてうれしいよ」
俺も制服なのでセーフだ。
「どうぞ、お席へ」
「なんか悪いなあ、夕食たかって上座に座らされるなんて」
「お気になさらないで下さい、根岸先生もお座り下さい」
明日香クンのことは親戚と言うことにしてある。
「はあ、失礼します」
キョロキョロしながら、席に着く。
「そちらは?」
マヤの隣の美人は母親では無さそうだ。若過ぎる。
「秘書の村雨さんです。一人の外出は許して貰えないので無理を言って付いて来ていただいたのです」
「犬神マヤ様担当秘書の村雨瑞希と申します、どうぞよろしく」
頭の良さそうな女性だ。それに切れそう。
「瀬尾アヤメです、こちらこそよろしく」
「根岸明日香です」
明日香は気後れしつつも自分で名乗った。
「根岸先生は、養護の先生なんですよ」
マヤが付け加えてくれる。
「ええ、大学を出たついでに医師免許を取っといたものですから、いまごろ役に立ってます」
かなり緊張しているらしい。
「お客様、お揃いでしょうか」
女将が声を掛ける。
「はい」
村雨瑞希が代表して返事をする。
「社長よりご挨拶をさせて頂きたいのですが、よろしいでございましょうか」
「はい」
「ありがとうございます」
女将は深く頭を下げた。

「本日は、ご来店ありがとうございます」
男はしっかりとネクタイを締め板前の白衣を身に付けている。テレビで良く見る高級料亭の料理人の格好だ。
社長は、年の頃は50ぐらいだろうか、やや小太りでブルドックみたいな顔をしていた。
「綺麗なお嬢様ばかりですな、歓迎します、どうぞおくつろぎ下さい」
満面の笑みを浮かべる。
「はい、本日はご馳走になります」
今度はマヤが応えた。
その後は、大株主に対する挨拶が続くわけだが、5分ほどで秘書が上手く切り上げさせた。
「では、お料理をお楽しみ下さい、お嬢様方、お酒はどうされます」
「いえ、どうぞお構いなく」
明日香クンがビクっと反応したが、村雨女史がきっぱり断ってしまった。
「あうっ」
隣から無念そうな声が聞こえる。
社長が下がり、やっと食事の時間となった。
「根岸先生、どうぞ楽にして下さい」
村雨女史がプライベートな感じの笑みを浮かべた。
「はい……あっ、足が」
明日香クンは、痺れた足を崩して一息付く。
「キミがそんなに緊張すること無いのに」
「だって……」
「申し訳有りません、こちらの用事にお付き合いさせてしまって」
マヤが本当に申し訳無いという顔をする。
「そんなこと無いよ、こんな美味しい料理が食べられるなら」
「毎晩でもお付き合いしますよ」
明日香クンは本気っぽい。
「本格的な懐石は久し振りだなあ」
椀物の生麩を飲み込んで呟く。
「私は初めてです」
「あたしも自分のお金じゃないよ。評議委員の接待とかでね、連中は何故か和食を食いたがる」
「それは、中国で中華料理を食べるのと同じですよ」
「ああ、なるほどね」
「おふたりとも仲がおよろしいのですね」
マヤは箸の使い方もお上品である。
「こっちに来てからだよ、特に親しくなったのは」
「ええ、昔は気軽に声を掛けられる人では有りませんでしたから」
明日香は遠い目をする。
「はあ」
マヤは目をパチクリとさせる。
気軽に声を掛けられない小学生像というのを思い描いているのだろう。
「でも、ここでいちばん親しいのはマヤちゃんだよ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んでくれる。
「そうだ、アヤメちゃんに父から伝言を預かって来ました」
「あたしに?」
「はい、『アガペリアのリチャード氏がお会いしたいとのことなので、明日の放課後お時間を頂きたい』とのことです」
「大物ですね」
明日香が声を潜める。
「ああ」
アガペリアのリチャードと言ったら、評議会議長のリチャード・コーウェンだ。
アガペリア財団のNo.2が来日しているとあれば、緊急会議の一つや二つは召集されるわけだ。
「アヤメさんは、アガペリア財団のリチャード氏をご存知なのですか?」
質問したのは村雨女史だった。
「ええ、知ってます、彼がわたしを知っているかはわかりませんけど」
この姿になる前は知っているけど……。
「アヤメさんは不思議な方ですね」
「そうですか」
「とても小学生には見えません」
「そんなに老けてます?」
「いえ、とてもかわいいお嬢さんですよ。でも、とても落ち着いていらっしゃる」
「ははは、それはどうでしょう。ところで村雨さんは、IKC(犬神家の資産管理会社)の所属ですか」
「はい、私はお嬢様の資産管理を担当しています」
「わたしのことは調べました?」
「いえ、お嬢様にお聞きしただけです」
「それで、わたしはマヤちゃんのお友達として村雨さんのお眼鏡には適いました?」
「はい、申し分有りません」
「それなら安心したよ」
「私もです」
マヤもホッと胸を撫で下ろした。

帰りは犬神家と言うか、マヤのベントレーでマンションまで送って貰った。
「じゃあ、また明日、今日はとっても美味しかったよ」
「私もとても楽しかったです、では、おやすみなさい」
「おやすみ」
ウインドウが音も無く閉じ、車はUターンして走り去った。
「ロールスロイスに乗ったのも初めてです」
明日香クンはウキウキしている。これでアルコールが入っていたら、俺の小さな手には負えなかっただろう。
「あれはベントレーだよ」
薀蓄を披露しながらマンションに入った。

「リチャード氏とは、随分と大物が来日したものですね」
一応、玄関の扉を閉めてから明日香は口調を変えた。
「どうりで恵子クンまで召集されたわけだ」
「緊急来日なんですね」
「山田室長の慌て振りが目に浮かぶ。さて、お茶でも飲むかい、明日香クン」
「私はウーロン茶でいいです。少し食べ過ぎちゃいました。懐石料理ってもっと少ないのかと思ったら、結構ボリューム有るんですね」
「店にも寄るけどね」
「それに美味しいからつい、食べ過ぎちゃうんですよね」
「仕方が無いよ、キミたちのOSは最初からそうプログラムされているんだから」
「確かに……主任がうらやましい」
「はい、どうぞ」
キッチンの冷蔵庫から出したウーロン茶の缶を明日香に手渡す。
俺も同じモノを手にしてソファーに座った。
「小学生に秘書ってのも凄かったですけど」
「マヤちゃんの動かす資金はちょっとしたものらしいよ」
「あの秘書、只者じゃ有りませんね」
「村雨女史か、多分ね、IKCに只者はいないだろう」
「敵か見方か、アガペリアのリチャード氏のことも知っていましたし、まさかプロジェクトのことまで知ってるのでは」
「いや、それは無いんじゃないかな、リチャードの情報は犬神社長からだろう」
「ちょっと口が軽いですね」
「嘘がばれない様にするのは、どうすればいいと思う?」
「そうですね、綿密なシミュレーションでしょうか」
「簡単さ、嘘を吐かなければいいんだよ」
「あっ、ずるーい」

「さて、お風呂に入りましょう」
「えっ、今日はもういいよ」
「駄目です、外に出たんですから、綺麗にしないといけません」
嫌がる俺をまたバスルームに連れ込んだ明日香は、またゴシゴシ(女の子の肌はデリケートじゃなかったのか!)と洗ってから湯船に沈めた。
「やっぱり寝る前にはお風呂に入らないとね」
今度は、背中を向けることすら許されてない。
「恥ずかしく無いのか、明日香クン」
俺は、ブクブクとお湯を泡立てる。
「10歳の女の子に何を恥ずかしがる必要が有るって言うんですか?」
俺のホッペをプニプニする。
「主任の方が意識し過ぎなんです、これからは女風呂に入らなきゃならないんですよ」
「……そうなんだけどさ」
「仕方ないですよ、主任が素体1号をこんなかわいい女の子にしちゃったんですから」
「……だって、種はメスが基本なんだぜ、オスは直ぐに死んでしまう」
「無理をしてでも男の子にしておくべきでしたね」
「そんな無理が効くなら、誰も苦労しないよ」
ブクブクブク……。
「あの事故が有っても無くてもBODYになった主任は主任なんですから、その辺りのことは、もっと良く考えておくべきでしたね」
「……まあね……正直そこまで考えは回らなかったよ、あの頃の俺はシングルタスクだったから」
「主任、俺は駄目です」
「チェック厳しいな」
「早いうちに矯正すべきことですからね」
「ラボでは何も言わなかったくせに」
ブクブクブク……。
「ラボはラボ、ここはここですよ」
「わかったよ」
ブクブクブク……と、また泡立てる。確かに明日香クンは着痩しているな

恵子クンよりも丹念にドライヤーとブラッシングされてから、やっと明日香クンから開放された。
寝るにはちょっと早いので、書斎の端末で一時間ほど調べものをした。
「さて……このぐらいにするか」
端末をシャットダウンすると、暗くなったモニターに明日香クンの影が映った。
「うっ……」
「主任、おネムの時間ですよ」
振り返ると、そう言って微笑む。
「まあそれはいいとして、何でキミは枕なんか持っているわけ」
ピンクのストライプのパジャマを着た明日香クンは、妖艶な美女から、また貧相な中学生に戻っていた。
しかも枕を抱き締めるように抱えている。
「主任と一緒に寝るからに決まってるじゃないですかあ」
「キミには、ゲストルームのベッドを使ってくれって言わなかったっけ」
「あたし、初めての場所って怖くて眠れないんですよ。お気に入りの枕も持って来たんですけど、それだけじゃ心細くて」
「だからって……小学生の女の子に頼らないよーに」
「いいじゃないですか、減るものでも無し」
「ベッドにおける個人の占有面積が減る」
「まあ、まあ、硬いこと言いっこ無しですよ」
「あっ、ちょっと待て……」
枕といっしょくたに抱きかかえられた俺は、有無を言わさずズルズルと自分の部屋に引っ張って行かれた。

「主任、暖かーい」
「あのね……」
布団の中で明日香に抱き締められている。
まるでぬいぐるみにでもなった気分だ。
「BODYの体温は、確かに少し高めですね、数値で見るより直に触った方がハッキリします」
「それは良かった」
顔に彼女の胸が当たって少し息苦しい。
「ミルクの匂いがする」
髪の毛にまたキスされてしまった。
「リンスの匂いじゃないの」
「いいえ、全然違いますよ、これってBODYの匂いなんじゃないですか」
「さあ、そこまではチェクして無いな」
実験前の俺自身は、BODYに直接触れたことはほとんど無い。
「ねえ、主任、あたしに対してムラムラします?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて俺の瞳を覗き込む。
「それって、性的衝動のこと」
「ええ、そうです」
「心配しなくても、その部分のOSは既に書き換え済みだよ、本能的な性衝動は女性に対しては起こさない」
「じゃあ、男の人に対しては?」
「メンタルな部分でストップが掛かる」
「するとメンタルな部分での性衝動は残っているということになりますよね」
「それは否定しないよ、だから一緒のベッドにいるのは危険かもよ」
ニマっと笑う。
「脅かしても無駄ですよ」
「別に脅かしてなんかいないぞ」
「主任はそういうことはしない人です。例え、相手が望んでも気付かない振りをしてしまう、そんな人ですから」
「それは誤解だよ」
「いいえ、誤解じゃ有りません」
自身たっぷりに断言する。
「多分、知らない振りなんてしていないよ……本当に気付かなかったんだと思う」
「……ふう……」
明日香は、深いため息を吐いてから、俺の髪を撫でる。
「確かに……そこは訂正します」
半年前の事件は、俺が思っていた以上の波紋を投げかけていたらしい。
「明日香クン、キミ……もしかして」
「えっ、何ですか?」
彼女の息が止まる。
「ロリコン?」
「ちっ、違いますよ!」
「だっていくら女同士でもこんなに布団中で抱き締めたりしないと思うけど」
「それこそ、誤解ですよお」
「……本当に」
「そのジト目は信じてませんね」
「うん」
「確かにBODYをこうして抱き締めてあげたいという気持ちは有りました」
「やっぱり……」
「でも、主任の考えているようなエッチな気持ちじゃないですよ」
「別にエッチなことは考えてないって」
「本当ですかあ」
「本当だよ」
「うーん、やっぱり、かわいい!」
また、ぎゅーっと抱き締められてしまう。オッパイに埋もれて息が出来なくなる。
「だから、苦しいよお」
「はははは、ごめんなさい、また力が入っちゃいました」
「キミの説明は段々、説得力を失って行くぞ」
「ですから、深い訳が有るんですってばあ」
「聞かせてよ、どんな理由があってあたしを窒息させようとしたのか」
「……窒息させようとはしてませんよお」
明日香クンは、唇を尖らせてから、ポツリポツリと話し始めた。

「ちょうど1年前ぐらいのことです、あたしがBODYの1号素体を見たのは」
「1年前なら、この身体はまだ培養水槽に沈んでる頃だな」
「ええ、そうです。あたしはID貰って直ぐ、素体を見学に行きました」
「あたしの裸を見に行ったわけだ」
「別に裸を見に行ったわけじゃないですよお」
「あうっ、わかったからオッパイを押し付けないでよ、息が出来ないって」
「ああっ、すいません……ぐったりしないで下さい」
「無理言うなって……」
ラボでもBODYの素体、つまりいまの俺の身体を直接見ることが出来るのは全体の極一部のスタッフに限られている。
しかも1年前なら、片手にも満たないはずだ。
「衝撃的でした。水槽の中にかわいい女の子が沈んでいたのですから、どこからみても普通の……」
「水とは言っても羊水なんだけどね」
当時の俺には見なれた風景だった。
硝子の水槽の中で眠り続ける少女。
既にアヤメと名付けられていた。
「ええ、頭ではわかってるつもりだったんですけど……羊水の中で呼吸しているのを見てやっと納得しました」
「別にBODYじゃなくたって出来る芸当だけどな」
「あたしは、肺に羊水を注ぎ込むなんて絶対にやりたく無いです」
「それで、1年前あたしに目を付けたと?」
「違いますう!」
「……そんなに大きな声を出さなくたって聞こえるよ」
耳がキーンとする。
「水槽の中のBODYは、とても寒そうに見えました」
「羊水の温度は、36.9℃に保たれていた筈だが」
「だから、そう見えただけですよ……あの頃は、もっとおとなしかったのに、どうしてこんなにひねくれちゃったのかしら」
子猫をあやすように俺を撫でる。
「悪かったね、ヒネてて」
「あの頃は、この子を水槽から出して抱き締めて暖めてあげたい、純粋にそう思っただけなんですよ」
今度は、優しく抱かれる。
「いま、やっと叶いましたけど」
「実際には、暖めているのはこっちだけどね」
「もう、浸ってるんですから現実に引き戻さないで下さい」
「悪かったですね」
「ねえ、主任、自分に子供が出来たら、こんなにかわいいんでしょうか」
「さあ、どうだろう」
「かわいくないとでも言いたいんですか?」
「いや、普通の子供だったら、こんなぬいぐるみみたいに扱われたら、絶対泣いちゃうだろうなと思っただけさ」
「……」

結局、明日香は俺に抱きついたまま眠ってしまった。
将来、自分の子供を圧死させないことを祈る。
俺はと言えば、変に目が冴えて寝つけ無いでいた。
明日香クンに抱き付かれているから眠れないのだろうか?
いや、そうじゃない。
メンタルな性的衝動は、失礼かも知れないが、彼女に対しては発動されそうにない。
もっと別な何か、ザワザワとした感じ……。
いったいこれは何だろう?
これまでに感じたことのない感覚。
感情に起因するもの……いや違う。
もっと直接的な感触、例えば五感……それに近い。
でも、上手く把握して処理することが出来ない。
ザワザワした……文字に置き換えるなら……不快な何か。
やがてそれは徐々に弱くなり、そして消える。
俺は原因追求と言う無駄な努力を諦めて目を閉じた。

眠りは浅かったらしい。
ドラえもんの目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
横を向くと明日香クンがしっかりと張り付いている。
静かな寝息。
子供みたいな寝顔で夢の中だ。
彼女の方が、ずっとこの身体に相応しいOSを持っているような気がする。
「さて……」
明日香クンに朝食の準備は期待出来ないので、そっとベッドから這いずり出た。
時間が有れば、昨夜の《変な感じ》をチェックしてみたかったが、今朝はちょっと無理そうだ。
手早く身支度を整えて、制服の上にエプロンを付ける。
恵子クンの用意してくれたシマウマ模様のエプロンは朝からサファリな気分にしてくれる。
それからキッチンで朝食の準備を開始した。
「さて、何にしようかな……出来ればお弁当に持っていければ一石二鳥」
手の届くところに有るのは、ホットケーキの素だ。
「牛乳と卵は有ったよな」
どちらも冷蔵庫に入っている。
「決まりだね」
ボールを取り出して、正確に目分量で測りながら混ぜ合わせる。
『BODYはケーキ作りに向いてますよ』と、以前、恵子クンが言ったことがある。当時は何のことかさっぱり分からなかったが、いまになってようやく得心した。
「ふむ、混ぜ過ぎないのがコツか」
箱の説明書きを読みながら作る。
つまり、生地の中の空気を逃がさなければいいわけだ。
「それと、フライパン」
ガス台の前に椅子を置いてその上で膝立ちになる。ちょっと危ないけど、爪先立ちよりはずっと安定していた。
「温度良し」
生地をすくって、時計回りのモーメントで一定の厚さの円盤を製作する。
「まずまずだな」
後は、表面がブツブツして来たらひっくり返せばいいと書いてある。
「温度管理はホットプレートの方が楽そうだな」
でも、これは出来ないか。
両手でフライパンの柄を持って、ひょいとホットケーキを裏返す。
裏側は美味しそうな色に焼けていた。

「美味しそうな匂いがしますね」
明日香クンがパジャマのままキッチンにやって来た。
「おはよう、良く眠れたかな」
「おはようございます主任、おかげさまでぐっすりです。今度から眠れない時は一緒に寝て貰おうかな」
「そんなことより、早く仕度しないと朝ご飯が食べられなくなるぞ」
「はーい」
くるんと回れ右して洗面所へ行く。
昨日から今朝に掛けて、明日香クンに面倒をみて貰うというより、明日香クンの面倒をみたというのが正解だろう。

「今日のお弁当は、ホットケーキなんですね」
マヤが俺の弁当を覗き込む。
「うん、ホットケーキのジャムサンド」
ジャムを塗って重ねたホットケーキを一口サイズに切り分けてラップに包んだだけのシンプルなものだ。
「もしかして、アヤメちゃんがお作りになったんですか?」
「はははは、見た目でわかっちゃうかな」
「とても綺麗に焼けてますよ」
「良かったら、一つ味見してみて、ブルーベリージャムだから目にいいよ」
「じゃあ、いただきます」
「不味くは無いと思うけど……」
心配になって、自分も一つ手にとって頬張る。
……うん、人に勧めて失礼なほど酷いものでは無いと思う。
人間でのサンプリングが明日香クンだけなので、いま一つ自信が持てないでいた。
「とっても、美味しいですよ」
マヤが作り物じゃない(と、思う)笑みを浮かべてくれた。
「良かった」
「美味しそうだね」
葉月美和がお弁当の包みを持ってやって来た。
「美和ちゃんも味見してみて」
「ありがとう」
「葉月さんもお昼、ご一緒にいかがですか」
マヤが誘う。
「いいの?」
美和は、俺の顔を見る。
「どうぞ」
「良かった、誘ってくれなかったらどうしようと思ってたんだよね」
前の席の椅子だけ動かして美和はランチのテーブルに加わった。
「凄いなあ、アヤメちゃんホットケーキ焼けるんだ」
「とっても美味しいですよ」
「だと、いいけど」
俺とマヤに見守られて美和は、ホットケーキを口に運ぶ。
「うん、美味しい」
美和もニコっと笑ってくれる。
「そう言ってくれると嬉しいよ」
自分もパクつく。
とりあえずBODYの味覚と同世代の女の子の味覚に大きな変化が無いことが証明された。
個人的には、生地がもうちょっと薄いと良かったように思える。
「アヤメちゃんは、他に何が作れるの?」
美和が、自分のお弁当を広げながら聞く。マヤに負けず劣らずかわいいお弁当だ。
「ピザなら作れるかな……」
学生時代アルバイトしてたから。
「それとフライドチキンとハンバーガー、ステーキ、焼き鳥……」
思い返すと食い物関係のバイトばっかりだ。
「すごーい」
「おうちで作られるのですか?」
ふたりは目を丸くしている。
「あっ、えーと、それなりの道具があれば、そんなに難しく無いから」
でも、小学生が作るには少々渋過ぎたか。
船盛りとか付け加えなくて良かった。
「ふたりは?」
「あたしは……作ったこと無いな……」
美和は腕を組んで思案する。
「犬神さんは?」
横を向いてマヤに振る。
「私は……クッキーぐらいなら何とか作れます」
恥ずかしそうに言う。
「クッキーかあ、そうだね、女の子はお菓子を作らなきゃ、あたしもドーナツなら一晩中揚げてたことがあったなあ」
辛い思い出である。
「そんなに作られたのですか?」
「はははは、ちょっと事情があってね」
「何にしても凄いね」
まあ、本物の小学生なら凄いだろう。
「アヤメちゃんは凄いし、犬神さんもクッキーが作れるし、あたしだけ何も作れない」
美和は、お箸を咥える。
「これから、作られてはどうですか?」
「あたしにも出来るかな」
「大丈夫ですよ」
「そう、何事も経験」
「……わかった、やってみる」
決断してから、美和はお弁当を食べ始めた。
そんな彼女を見ながら、ブルーベリー以外のジャムも使えば良かったなと思う。ちょっと飽きて来た。

昼休みの終わる少し前に保健室に行く。
「いらっしゃい、アヤメさん、準備出来てるわよ」
明日香クンに出迎えられて、椅子に座る。
「ホットケーキサンド美味しかったですよ、今度また作って下さいね」
「この次は、ドーナツを揚げてあげるよ」
「わあ、楽しみ」
そう言いながら、明日香クンの指はキイを叩いて俺の身体をチェックする。
手持ち無沙汰な俺は、ふと窓を見る。
「んっ?」
中庭を黄色いオーバーオールを着た人たちが何人も歩いていた。
「ガス屋さん?」
背中と白いヘルメットにガス会社の名前が入っている。
「校内がガス臭いとかで、一応連絡したみたいですよ」
「へえ、まあクラシックな校舎だから、ガス漏れぐらい有っても不思議じゃないけど」
「でも、最初からガスの配管なんてほとんど無い筈ですよ」
「確かに……使わないか」
「じゃあ、何処から臭って来たんでしょうね」
「さあ、いずれにしろ、ガス会社の人が来てるんだから任せればいい」
「それは、そうなんですけどね」
「ところで、昨夜ちょっと変な感じがしたんだけど、何かモニターされてないか?」
「あたしと同じベッドに寝た影響でしょうか?」
「いや、絶対に違うと思う」
「……そんなに強く否定しないで下さいよ、傷付くなあ」
「襲って欲しかったの?」
「小学生の女の子に襲われても怖くないですよ」
「それで、モニターに何か出てる?」
「あっ、すいません……あたしも今朝チェックしましたが、特に問題になりそうなものは無いですね」
「見せて」
明日香クンが手にしているノート型の端末のディスプレーを覗き込む。
「……確かに何も出て……この波は?」
これまで見たことの無い波長の波がわずかに蠢いている。
「誤差範囲内に収まっていますけど」
「時間は……ほぼ一致する」
「ふむ、いちばん可能性が有るのはゴーストですね、そうじゃないなら、身体的な刺激に近い何かということになります」
「つまり……五感に近い?」
「ええ、主任もそう感じました?」
「ああ、その方が信じられるね。何たって引っ越し前に恵子クンが万全のゴースト対策を施しているから」
「もしかして、人間と違う未知の感覚だったりして……」
「無い可能性ではないな。ただ直ぐにはわからない」
「いずれにしろ、長期間のモニターが必要ですね」
明日香クンは研究者の顔になった。

教室に戻ると生徒たちが教科書とノートを持ってウロウロしている。
「次の理科は、理科室だそうですよ」
マヤが駆け寄って教えてくれた。
なるほど、黒板に純子の字で書いてある。
「ふーん、実験でもやるのかな」
「そうだと思いますよ」
俺も教科書とノートを机から引っ張り出した。
「行こうか」
「はい」
いまさら、アルコールランプで実験をするとはね。
「ねえ、ねえ、アヤメちゃんはこの学校の理科室、初めて?」
廊下に出たところで美和が俺の隣にくっつく。
「転校初日にマヤちゃんが案内してくれたよ」
「ええ」
マヤがうなずく。
『廊下は一列に!』なんて、うるさいことを言う教師もいないので、俺たちは3人並んで歩く。小学生の小さな身体では、たかが知れた広がりだ。
「ガス屋さんまだいるんだ」
特別校舎を2階で繋いでいる連絡路から、まだ中庭を歩き回っている白いヘルメットが見えた。
「ガス屋さんなんだ」
「背中にそう書いて有りますね」
「どうやら、引き上げるところみたいだな」
「ガス漏れでも有ったの?」
「ガスを使う教室なんて、調理実習室にしか有りませんけど……」
そこは別棟の建物になっている。
「つまり漏れて無いから、帰るんだろう」
「そうだね」
美和は難しい顔をしてうなずく。
「さあ、早く行こう、遅刻したら大変だ」
俺は、ふたりを促して理科室へと早足で向かった。

「今日は、ホウ酸を使った実験をしましょう」
純子が教壇で説明を始める。
それって、もしかして水に溶かすだけか?
俺は理科の教科書を斜め読み。
再結晶?
まあ、目で見た方が分かりやすいか。
「では、アルコールランプを取りに来て下さい」
俺の班は、マヤとあと男の子×2だった。
「あたしが取って来るよ」
おっとりとした男の子×2だから、役に立ちそうに無い。
それに久し振りの実験と聞いては黙っていられない。内容はアレだけど。理科室の大きな教卓から燃料用アルコールのたっぷりと入ったランプを一つ手に取った。
「アヤメさん、マッチも忘れないでね」
純子の手から直接マッチの箱を受け取る。
アルコールランプを手にするのは久し振りだが、マッチを手にするのも久し振りだ。元々、煙草をやらないし、焚き火とも縁が無い。
「ありがとう、純子先生」
もっと言葉を交わしたかったが、授業中と有っては、そういうわけにも行かず渋々、席に戻った。
「次は、ビーカーに秤と……」
結局のところボーっとしたボンボン×2はそのままに、俺とマヤで実験道具のセッティングを終えた。
「では、火を点ける前の飽和水溶液を作ってみましょう」
ちまちましたつまらない実験である。
どうせなら、もっと派手に新しいたんぱく質を作ってみましょうとか、塩基配列を変更してみましょうとか、スピロヘーターを培養してみましょうとか……やってくれると張り合いもあるのだが、無理か。
電子顕微鏡どころか、破砕機すら無いもんな。
……普通は無いか。
「飽和水溶液の新しい値を発見したら、ノーベル賞ものだが」
まだ、ホウ酸を入れてないビーカーの水を掻き回す。
「200ミリリットルの水に2キログラムのホウ酸を溶かすとかですか?」
「そういうこと」
計量担当のマヤがビーカーな最初の10グラムをビーカーに入れる。
俺がガラス棒担当なので、ビーカーの中のホウ酸を溶かす。
「……」
それでもって、お坊ちゃん×2がギャラリー担当になっていた。
「超飽和水溶液の研究なんて、マヤちゃんのお父さんの会社でもやっていそうだね」
「超吸水物質の開発ならしているみたいですよ」
「お父さんの会社のこと、結構知ってるんだね」
「私も一応、株主ですから、多少は調べています」
「自分で? それとも村雨さんに調べて貰ってるの」
「村雨さんにお聞きすることも有りますが、主に直接、問い合わせています」
「偉いね」
犬神ケミカルの次期社長は、さらに会社を躍進させることになるだろう。
「そろそろ飽和水溶液の状態ですね」
なるほど、ビーカーの底に少しホウ酸が溶け残っている。
「ふむ、そのようで」
ガラス棒でさらに水を攪拌(かくはん)してもそれ以、溶けそうに無い。
「じゃあ、アルコールランプに火を点けてみましょう」
純子が俺の肩に手を置いた。
「はい」
鼎(かなえ)に金網を載せてビーカーを置く。
「これって、昔、石綿じゃなかった?」
金網をチョンと突付く。
「そうなんですか」
マヤは首を傾げる。
「良く知ってるわね」
純子が俺に顔を近付ける。
「えっ、まあ、いろいろ……」
しまったまた、失言だ。いまどきの小学生が昔の実験器材のことなんて知らないよな。
「アスベストは、やっぱり拙いでしょう」
「ええ、そうですね」
純子が特に気に掛けて無かったので助かった。

俺が、マッチを擦ってランプに火を灯す。
甘いアルコールの匂いがする。
「火傷しないように気を付けてね」
「はい」
俺とマヤが声を揃える。ボンボン×2は、口を半開きにしてアルコールランプの黄色っぽい炎を眺めていた。
「さあ、たっぷり溶かしてみようか」
「ええ」
ビーカーの中の水溶液が湯気を立て始めた。
「温度が高ければ高いだけ……」

かすかに低く響くような音が聞こえた。
これは……。

「来る……」
俺は、反射的に隣のマヤを抱き締めてテーブルから離れた。
「みんな、ビーカーから離れて!」
俺は声を張り上げた。
「えっ」
マヤの顔が俺に向く前に、次の誰にでも聞こえる音と衝撃が来た。

ドンッ!

床が跳ねるような揺れと同時に窓ガラスが砕けた。

「きゃあ!」
ホウ酸水溶液の熱湯がテーブルに撒き散らされる。
ほとんどのクラスメートが床に転がった中で、俺とマヤだけが立っていた。
直感的に揺れの方向が読めるので、バランスを取るのは難しくは無い。
だが、理科室は酷い有様だった。
「アヤメちゃん……」
揺れが収まると途中から俺にしがみ付いていたマヤが目を開けた。
「地震ですか?」
「いや、違う」
音は、まだ下の方から続いていた。
「ガス爆発ですか?」
確かにさっきガス屋さんがガス漏れを探していたけど……今回は違うようだ。
「いや、この音は……水だ」
「水ですか?」
俺が答えようとしたところで、純子がよろよろと立ち上がった。
「みんな、大丈夫!」
純子が叫ぶ。
転んで泣いてる子が何人かいたが、幸い熱湯を被ったり酷い怪我を負っている子はいない。
「直ぐに避難します、みんな廊下に出て」
純子は、全員の無事を手早く確認すると、入り口の引き戸に手を掛けた。
「……あれっ……」
取っ手に手を掛けて純子は動きを止めた。いや、止めたわけでは無いようだった。
さっきの校舎が少し歪んだらしい、引き戸が桟に食い込んで変形している。そう言えばさっき窓ガラスが砕けたのもその所為だろう。
「手じゃ無理みたいね」
純子は、口を開けて中身をばら撒いている掃除用具のロッカーから、柄だけになったモップを拾い上げた。こういうものは、俺が子供の頃も入っていたっけ。
「みんな、危ないから下がっててね」
テコの原理で引き戸を破るつもりらしい。
俺は、その間に窓際に駆け寄った。
「アヤメちゃん、危ないですよ」
マヤも後から付いて来る。
「ガラスには気を付けるよ」
ガラスの破片の散乱した棚(窓の下に作りつけられてテーブルのようになっている)に飛び乗った。
「何なんだこれは?」
中庭が茶色い水で水没していた。
「どうなってます?」
「下が池になってるよ」
「どうして?」
美和も俺たちのところに駆け寄って来た。
彼女は、膝を擦り剥いて血を滲ませている。
「考えられるのは、地面から湧き出したってところかな」
ジリジリジリッ!
遅れて、火災報知機がけたたましく鳴り響く。
「何よ、いまごろ」
美和が唇を尖らせる。
《生徒のみなさんにお知らせします。ただいま校舎一階に水が入り込んでいます。一年生と二年生(本校舎の一階は一、ニ年のクラスで占められている)のみなさんは先生の指示に従って上の階に避難して下さい》
スピーカーから教頭先生の声が響く。
「水道管でも破裂したのでしょうか」
「そんなところだろうね」
「それで、そんなに水が出るの?」
美和が首を傾げる。
「本管に穴が開けば、結構凄いことになるよ」
しかも、この校舎の真下っぽい。ここは二階だから、水没の可能性は無いだろう。
ピロロロロロロッ!
今度は内線の電話が鳴った。
純子が直ぐに掛け戻って受話器を取った。
「はい……」
職員室と現状の情報交換を始める。
その間に数人の男子生徒が、変形した引き戸に挟み込んだモップの柄に取り付いた。
ギシッ!
大きな音がしてモップの柄がしなった。
「あんなので開くのかな」
「先に棒が折れるんじゃないか」
「そうですね」
俺たち三人はギャラリーを決め込む。
メキッ!
引き戸では無くモップの柄が大きな音を立てた。
「危ないぞ」
一応、声を掛けておく。
「もう直ぐだから」
顔を真っ赤にしてモップの柄をしならせる。
男の子だねえ。
バキッ!
「キャッ!」
モップの柄の折れる大きな音に女の子の悲鳴が挙がった。
バタン!
引き戸は、ワンテンポ遅れてこちら側にゆっくりと倒れた。
「やった!」
モップの柄の破片を持った男の子たちは尻餅を付いたまま歓声を挙げた。
「水……」
廊下から水が流れ込む。
「二階まで、上がって来てるのか」
床を舐めるように水が広がる。
男の子は慌てて立ち上がる。
「逃げるぞ!」
モップの柄を捨てて叫ぶと同時に廊下に走り出す。
「待ちなさい、廊下に出ちゃ駄目っ!」
純子が受話器を捨てて叫ぶ。
「待て」
俺は慌てて、男の子の後に追随するクラスメートを両手を広げて制した。
「アヤメさん、何人飛び出したの?」
「三人」
「連れ戻さないと危ないわ」
純子が廊下に飛び出す。
続いて俺も。
水深3センチで廊下は水没していた。
「先生、あれ」
廊下の突き当たり、西側の階段の方から大量の水が吹き出していた。
「だから、階段の方が危険なのよ」
逃げた男子生徒の背中が、反対の東側の階段へと消える。
「待ちなさい、あなたたち!」
しかし、三人は戻って来ない。
「アヤメさん、後をお願い」
「えっ、はい……」
何故か純子は、残りの生徒を俺に託して三人を追い駆けて行った。
「みんなもすぐ理科室に戻って、テーブルの上に乗るんだ」
入り口で突っ立っている全員がボーっとした顔で俺を見る。
「早くして、みんな!」
でも、マヤが叫んで、教卓によじ登ったのを皮切りに次々とテーブル上がる。
「たぶん、これ以上、水は上がらないと思うし、例え上がっても窓から流れてしまう。テーブルの上にいれば安心だよ」
俺は、全員がテーブルに上がるのを見届ける。
……まだ、純子が戻って来ない。
水はソックスが隠れるほど上がっていた。
「アヤメちゃんも早く登って!」
マヤがテーブルの上で叫ぶ。
「純子先生を見て来る、みんなは水が引くまでそこを動くなよ」
全員が緊張した面持ちでうなずく。
嫌な音が大きくなっている。
「気を付けて!」
「大丈夫だよ」
マヤに手を振って俺はバジャバシャと水を跳ね飛ばして廊下へと走り出た。

案の定、東の階段からも水が激しく逆流している。
走り寄るとそこから三人の泣き声がした。
人間には聞き分けられないだろうが、俺はしっかりとさっき走り出した三バカの声と識別した。
水を壁に沿って迂回して廊下へと近付く。
それでも、パンツまでビッショリになってしまう。
三人は、上の階へ昇る階段の踊り場で、東照宮の三匹の猿みたいに並んで泣いていた。
俺は、走り寄ってずぶ濡れの三人のうちの言わザルの胸元を掴んだ。
「先生はどうした?」
「……えっ、えーん……」
「泣くな!」
「……」
サルは、ビクっとして泣き声を止めた。滝のような水の音だけになる。
「先生は、どうした?」
「僕たちを助けてくれて……沈んじゃった」
「沈んだ?階段の下へか」
「……そう……」
俺は、直ぐに階段を駆け降りた。
「僕たち、どうすれば……」
三人は、踊り場で同じポーズのまま固まってる。
「そこで泣いてろ!」
俺は、そのまま逆流する水の中に飛び込んだ。

ゴボコボッ!
凄い水流な上に額がキーンとしそうなほど冷たい。
手足を必死にかいて水没した踊り場に達する。
純子の姿は無い。
何処だ……?
手すりを掴んで反対側の階段へと身体を引き寄せる。
この運動量だと、俺の水中での活動時間はそう長くは取れない。
焦るんじゃない……。
自分に言い聞かせて、階段を泳いで潜行する。
ここにも……いない。
階段から廊下側の丁字路に顔を出す。
ゴゴゴッ!
水流の渦に巻き込まれて廊下へと引きずり出されてしまう。
あっと言う間に教室の方へと流される。
俺は廊下の床に貼り付いて周囲の様子を伺う。
このままだと中庭に出されてしまうが……。
純子は、外に流されたのだろうか?
それならそれで、一安心ではあるが……。
水圧が重く身体に圧し掛かる。
天井まで水で溢れているのだから、結構なもんだ。
天井……。
視線を上に挙げた。
いた!
純子が真上の天井に貼り付いている。
意識は無いようだ。
手足をだらんとさせている。
俺は水流に流され無いように壁に貼り付いて少しずつ上に上がる。
直ぐにでも純子に取り付きたいのだが、激しい水流がそれを許してくれない。
手足が痺れる。
呼吸をこらえるのも限界に近い。
純子が流されなかったのは、火災時の煙をさえぎる為に作られている垂れ壁の所為だ。
それが水流から純子の身体を守っていた。
いや、死の淵に引き止めていた。
純子……。
かすれそうな意識の中で、俺は純子に向けて手を伸ばす。

「また、会えるよね」
俺が日本を発つ前の晩に純子は、そう言った。
「たぶん……」
「今度は、いい友達になれるといいね」

折角、再開したのにここで終わりにするなんて絶対に嫌だ!

ゴゴッ……!
水流が変わって、俺の身体が押し上げられた。
純子の手を掴んだ。
そのまま引き寄せる。
いまは自分よりずっと大きい純子の身体を抱いて手足を必死に動かした。
今度は水流に身を任せるので、ずっと速い。
来た道を逆に泳いで階段を昇る。
ほんの数秒で二階に達した。

ザバッ!

廊下に滑るように飛び出す。
「純子」
彼女の身体を引きずって水から引き離す。
「おい、純子!」
青白い頬を叩く。
「心臓は……動いてる……息が……ちっ」
膝の上に純子の頭を乗せて気道を確保し、鼻を摘んで唇から息を吹き込む。
死ぬな……。
そう念じながら、人工呼吸を繰り返す。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
何度目かの人工呼吸の後、純子は咳き込んで息を吹き返した。
幸い、水は飲んでいなかったらしい。
「大丈夫か」
純子の頬を今度は撫でる。
「……浩之……」
彼女の唇が動く」
「大丈夫か、純子」
「……やっぱり生きていたんだね……」
純子は薄目を開け、小さな声でそう言うと、また気を失った。
ちゃんと呼吸はしている。
俺は目頭が熱くなった。
「ああ、生きてるさ」
純子の大きな身体を背負って理科室に向かって引きずり始めた。

重たい大人の身体を背負って少しオーバーヒート気味の俺は、理科室のテーブルの上で転がっていた。筋肉が悲鳴を挙げている。
火事場の馬鹿力を出したツケが回って来たというところだろうか……冷静に分析しているけど身体はスリープモードへの移行を求め続けていた。
とにかく純子には、ダイエットをするように言っておくか。
「アヤメちゃん大丈夫ですか」
マヤがベソをかきながら俺の顔をハンカチで拭ってくれる。
「泣かなくて大丈夫だよ、少し疲れただけだから」
柔らかいマヤの頬に触れる。
「水が引いて来たから、もう直ぐ助けが来るよ」
美和が覗き込む。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「バカ、こんなに濡れて……心配ぐらいさせてよ」
美和の涙が眼鏡に落ちる。
「ごめん」
俺は周囲の女たちに心配ばかり掛けてるな。
目を閉じる。
スリープモードへの移行は、もう引き伸ばせないか……。
「少し眠るから……」
俺はマヤたちの声を遠くに聞きながらそのまま眠りに付いた。

目を覚ましたのは、暖かい羊水の中だった。
身体は溶けそうに気持ちいい。
『主任……気が付きました?』
恵子クンの声だった。
手を小さく振って返事をする。
『大活躍でしたね』
肩をすくめる。
『次からは、もう少しセーブして力を使って下さいね、筋肉にダメージが出てますよ』
今度は、明日香クンの声がした。
わかってるさ……。
『バランスを崩すと大変なことになりますからね』
俺は苦笑いを浮かべて、イカス棺桶の中でクルンと回転する。
身体はほぼ調子を取り戻していた。
『純子さんは、無事ですからご安心下さい』
『今日は入院されるみたいですけど、明日には退院出来る筈ですから』
それを聞いてホッとした。
『後で、犬神のお嬢さん葉月のお嬢さんがお見舞いに来て下さるそうです』
『葉月って、あの葉月グループの葉月さんなのですか?』
明日香クンの問いに俺はうなずく。
『ふう、主任の人脈って凄いですねえ』
別に実家の仕事で友人を得たわけじゃないんだけど。
『コーウェン氏も、お見舞いに来て下さるそうですよ』
そうか、奴と放課後に会う約束をしていたな。
3年ぶりの再会だが……。
奴はいったいどんんな顔をするだろう。見物と言えば見物だけど。
『お客様がいらっしゃるには、まだ少し時間が有りますから、そのままお休み下さい』
恵子クンのお言葉に甘えて俺はまた目を閉じた。

夢は見なかったと思う。
一時間きっかりで目を覚ました。
ダメージは完全に払拭されている。
昔の身体なら、数日は筋肉痛に悩まされていただろう。
棺桶から頭を出してタオルに手を伸ばす。
ブルブルと犬みたいに水を弾き飛ばしたいところだが、恵子クンに怒られそうだから止めておいた。
「水は懲り懲りだけど……シャワーは浴びとくか」
タオルを身体に巻き付けてペタペタとバスルームに向かう。時刻は午後5時を少し回ったところ。俺の体内時計は原子時計並に正確だ。
シャワーを頭から浴びて羊水を洗い流す。
「んー」
別にヌルヌルしているとかいうわけじゃないんだけど……水とはやっぱり違っている……昔は意識したことなんか無かったのに……やはり浸す方と浸される方の見識の違いという奴だろう。
「主任、洗ってあげましょうか?」
シャンプーをしていると後ろから明日香クンの声が掛かった。
「もう、終わるところだからいいよ」
泡を洗い流す。
「じゃあ、拭いてあげます」
明日香クンは、バスタオルを広げた。
「お手柔らかに頼むよ」
仕方なく濡れた身体を彼女に預けた。
「これから、どうされます? ベッドで休まれますか」
「もう大丈夫だよ、リビングで来客を待つさ」
「数値的には、平常時に戻ってますけど……今日はかなり危ない領域に行きましたからね」
「あれでもちゃんと計算してたんだぜ」
「元恋人の命が掛かっていたら、冷静じゃいられませんよね」
「……なんでそんなところまで知ってるんだよ」
「あたしの諜報能力を侮(あなど)って貰っては困ります」
俺の髪を拭きながらニマっと笑う。
「それに、主任が一人で水の中に落ちるわけ無いじゃないですか」
「そりゃそうだけど」
「とにかく災難でしたね、学校、明日は臨時休校になりましたよ」
「あの水はいったいなんだったんだ」
「水道の水ですよ。特別校舎の真下から噴出したらしいですね」
「やっぱりか、カルキ臭い感じはしたんだよな」
「最初のショックはガス爆発かと思ったんですけどね、ガス会社の人たちが来てたから。あたしもびしょ濡れになってしまいました」
「燃えるよりはマシだよ」
「そうですね」
身体を丁寧に拭いてくれた明日香クンは、今度はドライヤーを取り出して髪を乾かしてくれた。

「え、これ……着るの」
「せっかく、コーウェン氏が来ていただけるんですから」
「そうそう」
ふたりの女が差し出した着替えは、マヤに貰ったエプロンドレス。何故かオプションが増えている。
「ガーターベルトと、ストッキングはやり過ぎだと思うぞ」
「リボンも用意してあるから大丈夫ですよ」
「そういう問題じゃないよお」
大人の女ふたりに敵うわけも無く、俺は買ったばかりの着せ替え人形のように飾られてしまった。
「……頭に大きなリボンまで付けられると、贈答品になった気分だな」
鏡に写された我が身に思わずため息が漏れてしまう。
「かわいいですよ、主任」
明日香クンが後ろから肩を掴む。
「明日香、シワになっちゃうから主任を抱っこしちゃ駄目よ」
「はーい、先輩」
抱き締める代わりなのか知らないが頬にキスされてしまった。
「さあ、リビングに行ってお茶にしましょう」
「そうですね」
俺はふたりに手を引かれて自分の部屋を後にした。

「恵子クン、会議の議題は何だったの?」
紅茶を口に運び、一日ぶりに恵子クンの顔を眺める。
「あたしも聞きたいです」
明日香くんは、砂糖をたっぷり溶かしにかかっている。
「コーウェン氏から後で説明があると思いますが、BODYプロジェクトの一部テクノロジー公開についてです」
「金でも足りなくなったか」
「いえ、陳腐化する可能性の有るモノをいまのうちに使ってしまおうってことらしいですよ」
「シブちんのリチャードらしいな、それで公開の規模は」
「24件を各企業で分割します」
「結構な金額が入り込むな」
「ええ、ラボでもボーナスが支給されるみたいですね」
「何を買おうかな」
「貯金しておけよ」
「主任は、貰えないんですか」
「小学生が何に使うって言うんだ」
「主任にも出ますよ。公開される案件のうち20件が主任のものですから」
「……陳腐化したテクノロジーだろう」
「民生化が可能ということですよ」
「また、株が始められるぐらい入るのかなあ」
「それは、間違い無いんじゃないかな」
「主任、あたしのボーナスも増やしてくれませんか」
「今後、技術の公開のなされる24社の株を買っておけばいいだろう」
「直ぐに値上がりします?」
「5年のうちには来るんじゃないか」
「ぶー、時間が掛かり過ぎです」
「いくら陳腐化しやすいと言っても、BODYのテクノロジーを民生品に反映させるのはそれなりに時間がかかるさ。まあ、発表するぐらいは出来るけどね」
「ふむ、じゃあ半分は主任に投資します。残りで無駄遣いしようっと」
「だから、貯金しとけよ」
「おかあさんみたいなこと言わないで下さいよお」
明日香クンが唇を尖らせたところでインターフォンが鳴った。

最初に現れたのはマヤだった。玄関先までボディーガードのおばさんに送られてやって来た。エプロンドレスでは無いが彼女の母親が選んだであろう、フランス人形のようだ。
「もう、大丈夫なのですか」
玄関に迎えに出た俺に驚きの眼差しを向ける。
「うん、何とも無いよ」
クルンと回って見せる。
「安心しました」
「心配掛けてゴメンね」
「さあ、玄関先でお話していないで、どうぞお上がりになって」
「はい、お邪魔します。あの、これクッキーです」
「もしかして、マヤちゃんが焼いたの?」
「ええ、そうです」
マヤは、はにかんだ笑みを浮かべた。

「あれから学校はどうなったの?」
「水が引いて直ぐに下校になりました。明日もお休みだそうです」
「水没したんだから仕方無いさ」
「特別校舎は、もう使えないみたいですね」
「まあ、古いから建替えにはちょうど良かったんじゃないかな」

最初の紅茶がまだ湯気を立ているうちにまたチャイムが鳴った。
「こんにちは」
続いてやって来たのは美和だった。
こちらも良家の令嬢に相応しいドレス姿だ。
「いらっしゃい」
「あっ、犬神さんも来てたんだ」
「ええ、私もいま来たところです」
「アヤメちゃんは、寝てなくて大丈夫なの?」
「うん、たいしたことないんだ」
「これ、うちの母からです」
差し出したのは誰でも知ってるデパートの包紙を被ったケーキの箱だった。

「女の子だけで華やかですね」
「早速、クッキーとケーキをいただきましょうね」
恵子クンがテーブルに並べてくれる。
「マヤちゃんが焼いてくれたんだよ」
俺はクッキーを1枚手に取った。
「お口に合うとよろしいのですが」
マヤは首をすくめる。
「美味しいよ」
サクっとした歯ざわりと上品な甘さ。
「うん、とっても美味しい」
美和もうなずく。
「クッキーが作れるんだ、すごいね、あたしには無理だな」
明日香クンは、サクサクと食べる。
「ケーキも美味しいですよ」
恵子クンが、スプーンを口に運んでニッコリとする。
「こんな高そうなケーキ、食べたこと無いな」
口にする前から美味しいのがわかる。そんな感じのする複雑にクリームが層を成している凝った細工のケーキだった。当然、名前は知らない。
「うん、とっても美味しい」
「あたしは運んで来ただけだけどね」
「それは重要な役目ですよ」
三人で楽しくお喋りをしている。
半年前では、考えられない状況だけど、すっかり馴染んでしまっている。
BODYがOSを10歳の女の子に最適化してくれているのだろうか。
会話を続けながら同時にそんな思考をする。
上の空とかじゃなくて、しっかりとマルチタスクをしているわけだ。同時に複数の事柄に集中出来ると言うのは実に便利なものだ。
「おふたりとも、夕食を食べて行って下さいね」
恵子クンが、そう言って席を立つ。
「あたしもお手伝いします、先輩」
明日香クンもその後に続く。
「あの……おかまいなく」
「あたしも、そんなに遅くまでは」
良家のお嬢様だけにふたりとも礼儀をわきまえていらっしゃる。俺が子供の頃とは大違いだ。

楽しい夕食の時間を過ごして、9時前にお嬢さんたちをマンションの前で見送った。
マヤのベントレーに美和も乗り込む。
「じゃあ、また明日」
「おやすみなさい」
「またね」
後部座席にチョコンと座ったふたりに手を振った。
ベントレーが車の流れに乗って走り去るとそれと入れ替えにAMGのリムジンが俺の前に止まった。
「ヒロユキ!」
ドアが開くと同時にブロンドの美女にいきなり抱き締められてしまう。
「リサ……来てたのか」
「本当にヒロユキなの」
「……日本語、ずいぶんと上手くなったな……んっ」
昨日といい今日といい、オッパイで窒息させられそうになる。
「おい、リサ、そのぐらいにしてやれよ、お嬢さんが息が出来なくて目を白黒させているぞ。
「ああっ、ごめんなさい」
ちょっとぐったり。
「やあ、リチャード、ちょっと見ない間に額が広くなったな」
リサに抱かれたまま、後から遅れて来た大きな紳士に手を挙げる。
「おまえは、ちょっとみない間にずいぶんとチャーミングになった」
リチャードは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

アガペリア財団評議委員会議長という長ったらしい肩書きを持つリチャード・コーウェンは俺と同い年だ。知り合ったのは財団の研究所で、俺たちがBODYテクノロジーの基礎を作り上げたと言っていい。
リサことエリザベス・コーウェンは、その妹で天才的な量子物理学者だ。知り合った頃はソバカスに眼鏡の痩せっぽちの女の子だったが、いまはプレイメイトのような肉感的な美女に成長していた。確か年齢は今年で20の筈だ。

「……いまだに信じられないわ」
そう言うリサに俺はソファーでも抱っこされたままだ。
「資料は全部提出してあったはずだが」
俺は、リサを見上げる。
リサとも直に会うのは3年振りだ。
「資料は見てるわよ、でも……こうして初めて目の当たりにすると……ショックが大きいわ」
実際の発言には、日本語と英語が混ざり合っている。
「俺もそうだな……だが、そのかわいい口からあの訛った英語を聞かされると信じないわけにはいかないな」
こちらは訛りの無い綺麗な日本語を話す。
変な外人だ。
「悪かったな、訛ってて」
「あっ、この口調はやっぱりヒロユキだわ」
「リサ、悪いけどいまはアヤメという名前が付いてるんだけど」
「アヤメ……かわいい名前ね」
「BODYのプロトワンにキミが付けた名前だな」
「まさか自分の名前になるとは思いもしなかったよ」
「記憶の欠損は?」
「ほぼ無いと思う。しかしOSはこの身体への最適化が進行中だ」
「予測の範囲内か……」
「今日、あなたのお墓に行って来たわ」
「そうか……あいつに代わってお礼を言うよ」
「こんなことになるなら、あたしもヒロユキと日本に一緒に来るんだったわ」
「それは、キミの兄貴が許さないだろうさ」
「おいおい、俺を悪者にするなよ」
「大好きだったのよ、あなたのこと」
「あの時のリサは15だろう、手を出したらリチャードに殺されてたよ」
いまのリサにあの時の涙をボロボロ零した女の子の面影はほとんど無い。瞳は同じか。
「いや、おまえになら任せたと思うぞ」
「本当かな〜」
当時でさえ、体格差はかなりのものがあったが、いまは、話していると首が痛くなる。
「何を言っても、もう遅いわね……いまじゃ10歳の女の子では……」
リサは、俺の頭の上でため息を付く。
「そうだな」
腕を組んだリチャードに安堵の表情が見えるのは気のせいか。
「ところで、日本に来た本当の理由は何だ?」
「相変わらず、勘がいいな」
「テクノロジーの公開などという瑣末な問題で評議委員会議長と上級評議委員のふたりの大物が動くとは思えないからね」
「瑣末……いくらの金が動くと思ってるんだ。少なく見積もってもキミの国の国家予算規模はあるぞ」
「所詮は、金の問題でしかない」
「キミには敵わないな」
「兄さん、この子には秘密にするだけ無意味よ」
リサは俺の頭を撫でる。
「だろうな」
ため息を吐く世界有数の金持ち。しかしフォーチューン誌には載っていない。
「世界征服でも計画しているのか?」
「結果として、そうなるかも知れないわね」
「それは大げさにしても、我々は第三世代BODYで量産を開始することにした」
「まだ、第二世代の開発が終わってないというのに気の早い話だ」
「第二世代は、シミュレーションのみになる予定だ」
「そして第三世代の開発は、本国の研究所であなたが指揮を執るの。悪く無い話でしょう?」
「えっ、俺?」
「つまり来日した目的は、キミを米国に招聘(しょうへい)する。それだけだ」
リチャードはそう言った。

土曜日の午後、俺は一旦マンションに戻ってメンテを済ませると、また地下鉄に飛び乗った。恵子クンは大仰なドレス用意したが、固辞して制服を着込んでいる。これはこれで正装なのだから宮中晩餐会でもOKである。
「このローテローゼを30本下さい」
目的地の地下鉄駅の出口からいちばん近い花屋さんに寄り、赤い薔薇を指名買いする。オーソドックスな種類だが、ちょっとした思い入れがあった。かつては薔薇に種類が有ることすら知らなかったのだから、進歩はしているということだろう。
「おつかいなの?」
「はい」
「持てる?」
「なんとか」
制服の上にエプロンをした高校生のアルバイトの女の子から花束を受け取った。
「大丈夫?」
「うん」
とは、言ったもののスタンダード種(1輪咲き)で30本の薔薇は、この身体には少々大き過ぎたかも知れない。
純子の二十歳の誕生日にプレゼントした時は片手で持てたのだが、いまは両手で抱きかかえている。ショーウインドウに映る姿は、まるで花束が歩いているようだ。
「ここか」
目的地である学園教職員の独身寮は、同潤会アパート(日本最古のアパートとでも言えばいいだろうか)を思わせるようなクラシカルな鉄筋コンクリートの建物だった。地下鉄駅から10分も掛からないのだから、そこそこいい物件だろう。
「蓮見先生のお見舞いなのね」
「はい」
玄関で対応してくれた管理人さんは、白髪の上品なおばさんだった。部屋にいる彼女とインターフォンで連絡を取ってくれる。
「205号室ですよ」
「はい、ありがとうございます」
花束を抱えたままペコリとお辞儀をして、出して貰った大人用のスリッパを引っ掛けた。
ペタペタとリノリュームの古ぼけた床を歩く。
これで消毒臭かったら病院だけど、女性用の独身寮なので華やいだ香りがする。分析すると香水の残り香のようだ。
金属製の205号室の扉をノックする。
「いらっしゃい、アヤメさん」
純子が笑顔で迎えてくれた。元気そうなのでホッとする。
「こんにちは、先生。お身体の具合はどうですか?」
「もう何とも無いのよ、でもお医者さんから今週は休みなさいって言い渡されちゃったの。どうぞ、散らかっているけど中に入って」
部屋は個室で8畳間ほどの広さがあった。そこにベッドと小さなテーブル。後は本棚があるぐらい。飾り気が無いところは、昔と少しも変わっていない。
「先生、お見舞いです」
持て余し気味の薔薇の花束を純子にパスする。
「薔薇の花束なんて貰うの久し振り」
純子は受け取った薔薇の香りを楽しむ。
「ローテローゼまで、一緒ね」
「さくら(桜色の薔薇。ローテローゼの隣においてあった)の方が良かったかな」
「ううん、赤い薔薇は大好きよ、ありがとうアヤメさん」
それから純子は俺をテーブルに着かせると、どたばたと走り回って花瓶とお茶の用意を始める。
「先生、おかまいなく」
相変わらず、不器用なので紅茶は俺がいれる。
「こんな感じかしら」
寮長さんから借りて来た花瓶にそのまま薔薇を押し込んでいる。
「先生、花瓶には水を入れないと」
「あっ、そうだったわね」
花瓶の方も俺がやった方が早かった。
「アヤメさん、器用なのね」
「それほどでも無いですよ」
本当は純子が不器用過ぎるのだが……。
「紅茶って、本当はこんなに美味しい飲み物だったのね、先生、感動」
一口飲んで、そんなこと言ってる。
「大げさですよ、先生」
「ううん、あたしがいれると苦くて、お砂糖を沢山入れないと飲めなかったもの」
「……苦い?」
何か根本的に間違っているのでは……。
「これなら、お砂糖を入れなくても美味しい」
テイスティングするみたいにティーカップを覗き込む。
普通の味だとは思うけど。
そう言えば、彼女の作った手料理を食べた記憶は無い。
それとも食べた後、記憶を失ったとか。
否定出来ない。
「この前は、ありがとう」
カップを置くと唐突にそう言った。
「えっ」
「あたしを助けてくれたの、アヤメさんでしょう?」
「別にあたしは、水溜りから先生を引っ張って来ただけで……」
「キスしたでしょう」
「えっ……あれは、その……人工呼吸ですよお」
「ふふ、やっぱり、アヤメさんが助けてくれてたんだ」
「もう、誘導尋問ですよ」
「ごめん、ごめん、でも、どうしても確かめたかったの」
「結果としてそういうことになりますけど……」
俺は、ため息を吐く。
「誰にも言わないで下さいよ」
「どうして?」
「だって、うるさいことになるじゃないですか」
「そうね……それは、そうかも」
「静かに暮らしましょうよ」
「ええ、それはあたしも同感だけど」
「でしょう」
「アヤメさんは本当に不思議な人ね。こうして話していると、とても小学生には感じられないわ」
「そんなに老け込んでます?」
「いえ、とってもかわいいわよ、でも会話は大人ね」
「意識はして無いんですけど」
「まるで、あなたの中には大人の人が入ってるみたい」
「そんなに大人っぽいですか?」
「ええ、とってもね。犬神さんも大人っぽいけど、アヤメさんは次元が違うかな」
「ははは」
さすがに教師だけあって良く見ている。
「それに、あたしの知っている人に良く似ているわ」
「綺麗な人ですか」
「男の人よ」
「男ですか」
残念そうな声を出す。このぐらいは小芝居をしないと。
「あっ、でも、外見はぜんぜん違うから心配しないで」
それも複雑な気分だ。
「どんな人ですか」
「とっても頭のいい人だったわ、あたしなんか足元にも及ばないぐらい」
「先生の好きな人ですか?」
「ええ、そうね、好きだったわ」
「先生に好かれるなんて、幸せな人ですね」
「さあ、それはどうかしら、いまはもういない人だから」
「そうですか」
「どうして、女の子のアヤメさんと似てるって思ったんだろう」
純子は、マジマジと俺の顔を見る。
「雰囲気かしら」
純子の手が俺の頬に触れる。
俺も彼女の手に手を重ねた。
もし、本当のことを言ったら、彼女は信じてくれるだろうか。
純子なら信じてくれるように思える。
でも……それが、何を生むというのか。
「ねえ、アヤメさん、明日あたしに付き合って貰えないかしら」
純子の瞳に俺の顔が映っている。
「えっ、明日ですか」
「ちょっとしたピクニックみたいなものよ」
「ピクニック?」
「都合付かない?」
「あっ、いえ、そんなことは無いです、大丈夫です」
「じゃあ、明日の朝、迎えに行くわね」
純子は、そう言って冷めかけた紅茶の残りを飲んだ。

「すると明日は、純子さんとデートなんですね」
明日香クンは、きゅうりの漬物を頬張りながら言う。
「デートじゃなくてピクニックだよ」
「お泊りですか」
先に食べ終わった恵子クンは、お茶を飲んでいる。
「途中でビバークを余儀なくされるようなところには行かないと思うよ」
俺は、ヒラメのお刺身にわさびを少し塗り付ける。
「先輩が言ってるのは、そういうことじゃないと思いますけど」
明日香クンがニマーっと笑う。
「キミが考えていることとも違うと思うよ」
「問題が有るとするとメンテナンスの件ですね」
「日帰りだから心配無いよ」
「純子さんに変なことしちゃ駄目ですよ」
明日香クンは、漬物を独り占めすることに決めたらしい。
「ところで、キミはいつまでここにいるんだ」
「あたしですか?」
「他に誰がいる」
「それなら、ご心配無く、あたしもここに住むことに決めましたから」
「どーして?」
「だって、あのアパートじゃ毎日、コンビニのお弁当とかカップメンとか外食じゃないですか、やっぱり健康のことを考えると、ちゃんとした食事にしないといけないと思ったわけです」
「だから、ここに住むと」
「そういうことです。山田室長の許可も取ってますから、ここで若草物語のように暮らしましょう」
「あっちは4人姉妹だぞ」
「四捨五入すれば同じですよ」
「どっちも零でか……何にしてもベッドは別々だぞ」
昨夜も明日香クンにベッドの侵入を許してしまった。
「えー、いいじゃないですか、主任、暖かくて気持ちいいんだもん」
「駄目です」
きっぱりとそう言ったのは、お茶を飲み終えた恵子クンだった。
「どうしてですか、先輩」
「今夜は、私が主任と一緒に寝るからです」
「じゃあ、明日はあたしとですよ」
「仕方ないわね」
「……きみたち……」

翌日、朝の9時前に純子はやって来た。
「おはようございます」
俺は、恵子クンの用意してくれたお弁当の入ったバスケットを片手にエレベーターを降りた。今日は制服じゃなくて帽子、ワンピース、ソックス、スニーカーと全部白で揃えてみた。蜂に対して効果が有るはずだ。
「おはよう」
純子は、Gパンにデニムのシャツと、かつての彼女を思わせるラフな格好だった。
「行きましょう」
家庭訪問の時のように純子と手を繋いだ。
「いい天気で良かったわね」
彼女の言う通り、空は青く優しい日差しが歩道を照らし出す。
「今日は、何処に行くんですか?」
「いいところよ」
純子はそう言うと、俺を地下鉄へと誘った。

地下鉄を乗り継いでJRのターミナル駅に到着した。そこから北に向かう路線のホームへと入った。そこには特急が既に止まって出発時間を待っていた。
「奮発してグリーン車にしちゃった」
嬉しそうに切符をピラピラさせる。
「いいんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
グリーン車の禁煙席に並んで座る。
「ねえ、駅弁食べない?」
「お弁当なら、ここに有りますよ」
バスケットを持ち上げて見せる。
「それは、後の楽しみに取っておきましょう。ちょっと待っててね」
立ち上がるとスルスルと通路を縫ってホームへ降りて駅弁を仕入れて来た。
俺の前のテーブルを降ろしてお弁当を置いてくれる。
「日曜日はご飯が出ないから、先生お腹ペコペコなの」
早速、包みを開けている。
「あたしは、こんなに食べられないかも知れませんよ」
よりによって、純子が買って来たのはテーブルから溢れそうなほど大きな幕の内弁当だった。ついでに500mlのウーロン茶まで置いてくれる。
「食べられるだけでいいわよ」
「先生に半分ぐらいあげましょうか?」
「残念だけど、あたしも自分の分で精一杯みたい。ちょっと大きいの買っちゃったわね」
舌をチョロっと出す。ちょっとどころの騒ぎじゃないよ。

特急が動き出して直ぐ、俺の故郷に向かっている。そう直感した。
「……に行くんですね」
「わかる?」
「ええ」
「アヤメさんも行ったことあるの?」
「半年前に……」
「あの時、タオルに包まれていたの、やっぱりアヤメさんだったのね」
「目立ってました?」
「とっても」
さすがにそこまでは気が回らなかった。
「瀬尾浩之さんとは、ご親戚なのかしら」
「そんなところです、詳しくはわかりませんけど」
法的には親戚でも何でも無いが、精神的にはほぼ同一で、自分の子供よりも近い存在でありながら他人というあやふやな関係だ。
「アヤメさんは彼のお墓に行ったことある?」
「いえ、それは無いです」
自分の葬式で十分に打ちのめされた俺は、その後1週間ほど羊水に浸け込まれてやっと歩けるようになっからも、改めて自分の墓参りする気にはならなかった。
「じゃあ行ってみない、ピクニックにもいい