『みずや』


作 猫柳まんぼ




父は一度だけ母の水を分けてくれたことがある。あれは私が六つの時、その年の流行り病にやられ、連日の高い熱に力も尽き掛けようとしていたころのことだ。薄暗い部屋で布団にくるまり、熱い息を吐き出し夢とも現とも着かない中間を漂っていたように思える。
私の母はその三年前に身罷られ、仕事で留守がちな父に代わって近所の婆さんが面倒を看てくれていた。熱を出して一週間、私の記憶には正確な日にちなど無いのだが、その件の婆さんが(オトキさんと呼ばれていた)、その顛末を後々、口癖のように語ったので間違いは無いだろう。
一週間目の朝、いよいよ危ないと言う時に、父は白装束のまま私の枕元に来てくれた。一月振りのその顔に何故か、安心した落ち着いた心持になったのは覚えている。
父は、鹿皮の袋から硝子の水差しを取り出した。お水取りの道具をそんな間近で見るのは初めてだった。普段から父が肌身離さず持ち歩いていたし、例え置いてあったとしても子供の私が近付くことは固く禁じられていたからだ。
ああ、父は私の水を取りに来てくれたのだ……と、熱に浮かされた頭で思った。それが不思議なくらい安心したわけだったのだと得心した。
「おとうちゃん、みずとってくれるの」
私の問いに父は笑みを浮かべて首を横に振った。
「坊のみずは、坊の子供に取って貰え、これはおかあちゃんの水だ」
水で満たされている硝子の水差しを傾ける。
唇に硬い感触が当たった。それは父の体温で温まっていたのだろう暖かみを感じた。
水がほんの少し口の中に注ぎ込まれる。
水差しとは正反対に氷のように冷たい。でも少しも不快ではなく、まるで夏の火照りの中、深い井戸から汲み上げた清れんとした水で喉を潤したような感じだった。実際、熱でただれた喉にはとても心地良かった。
それはただの水では無い、父が母から汲み取った水だ。水が喉を通ると私の身体は、顔も正確に思い出せない母に抱かれていた。

ねんねんねんねこ……。

母の子守唄に、それまでの熱の苦しみから完全に開放され眠りに落ちた。
私が目を覚ますと翌日になっていた。酷い熱は去り、数日おとなしくしているうちに綺麗に直ってしまった。
それが、母の水を口にした最初で最後だ。
その十数年後、父の水を同じ水差しで私が取り、僅かに残っていた母の水に混ぜて葬った。それさえ、もう五年も前の話だ。

「お願いいたします」
山横目の大きな屋敷で使用人に案内された奥の座敷で、女は畳に頭が着きそうなほど深く頭を下げた。その一族の者たちがそれに従う。
「はい」
私も父に教わったままの作法でお辞儀をする。
「どうぞ」
疲れ果てた表情の女は、私を座敷の中央に敷かれた布団の枕元へと誘う。
「主人でございます」
行儀良く仰向けに寝かされた痩せた男が薄く目を開け、静かに呼吸をしていた。それほど歳が行ってはいないようだが、病魔がそれに時を加えていたのだろう。
寝ているとも起きているとも着かない表情だが、命の灯火が消えようとしていることだけははっきりとしていた。
「……」
男の唇がかすかに動いて、薄く開いた瞼の奥に私の白装束が映った。
「では、始めさせていただきます」
私は畳に手を置き、頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
それだけ言うと女は口元を押さえて声を殺して泣く。それを家族の者が慰めるように肩に手を置く。
私は病人に向き直り、鹿皮の袋から父より譲り受けた硝子の水差しを取り出す。空の水差しの注ぎ口をそっと男の乾いた唇に当てた。
男が目を少し開き息を深く吸い込む。
ひゅうという音が、広い座敷を横切ること無く消える。
水差しの底に水が入る。濁りの無い良い水だ。
私は、男の中から水を汲み出す。
音も無く水は混混と水差しの中に溜まり行く。
それは、この痩せ衰えた男の記憶。
いや、この水こそ、人そのものなのかも知れない。
人は水から生まれ、水に還る。
無論、本当のことは私にも分からない。
ただ父に教えられたまま仕事をする。それだけだから。父もまた同じだった。その父もまたきっと同じ筈だ。そのまた父も……。みずやだから水を汲むのだ。
清廉とした水は、たっぷりと溜まった。
男の唇から水差しを離し、私は一礼した。
「ありがとうございます」
女は、また深々と頭を下げ涙混じりの声を出した。
男は、目を閉じてかすかに息を吐いた。
そして、そのまま静かになった。

男の水を移した白磁の小瓶を女は大事そうに両手で包むように抱えた。
「その水は、決して口にされませぬようお気を付け下さい」
かつての父と同じ口上を述べる。
「はい、わかっております」
女は、戸口まで出て見送ってくれた。
今度は私が深く頭を下げ、笠を目深に被ってその屋敷を後にした。

境界である格子木戸を潜って郭に入る。こちら側は客の目に着くことは無い。
「お待ちしておりました」
番屋から現れた男は大きな身体を折って頭を垂れる。私は笠を被ったままそれに応えた。
「とうぞ、こちらへ」
猛禽の目付きを思わせる男は遊郭の店の者では無い。彼らは穢れを扱い廓を守る。
男が案内したのは、とある店の小さな離れだった。
「こちらでございます、中でお待ち下さい」
戸を開けると顔とは不似合いな丁寧な口調で奥を指し示した。
「恐れ入ります」
私は一礼して座敷へと上がった。真新しい畳の敷かれた部屋には何も無い。
程無くして、こちらに近づく足音が聞こえた。一人では無いらしい。
「お待たせしました」
店の者らしき愛想笑いを浮かべた油っぽい肌の男が入って来た。眼光の鋭さを木戸から案内してくれた男のように表には出さず、注意深く笑みの奥に隠している。
私は無言で礼を返す。
「早速、お仕事の話で構いませんかな」
「お願いします」
正直、ここは居たい場所では無い。新しい畳の匂いに僅かではあるが血の匂いが混ざっていた。
「二人ともこちらに来てご挨拶なさい」
控えていた女が二人、私の前に座った。この店の女なのだろう、ただ片方はまだ少女と言って良かった。
「お初にお目に掛かります、ゆきめと申します」
綺麗に化粧をした女の方が先に口を開いた。
「……あやです」
続いて、少女が不安そうな眼差しを私に向け小さな声で自分の名前を告げた。
「おみずやさんには、これでもうお分かりかとは思いますが」
「ええ」
「では、よろしくお願いいたします。何か要り用のものが有りましたら、表に控えてる者に何なりとお申しつけ下さい」
男は、みずやとの仕事に慣れているらしく、必要なことを告げると二人の女を置いて出て行った。

「あっ、あっ、あっ……」
男に組み敷かれたゆきめは、私の前で控えめな嬌声を挙げる。既に辺りは暗くなり、油の灯が仄かな光を出していた。
「うっ……」
男は身体を硬直させて精を放った。
「代わって下さい」
私の言葉にうなずいた男は、控えていた別の男にゆきめを譲り渡す。
「はあ、はあ、はあ……おみずやさん、まだ続けるの……」
ゆきめの肌は汗にまみれて光り、乱れた髪は隠微な美しさを醸し出す。
「はい、もう少し辛抱下さい」
「いいけど……あっ!」
別の色黒の男がゆきめを抱き起こして、私とあやに見せ付けるようにして自分のモノを彼女の中に押し込んだ。

空が白む頃、私は硝子の水差しを取り出した。
一昼夜に渡って犯され続けたゆきめは、男たちの精を溢れさせた部分を隠そうともせずに足を開いたまま横になっている。
あやは、部屋の隅で膝を抱えていた。さっきまでは眠っていたようだが、空気が変わったのを感じたのか、いまは私をじっと見ていた。
男たちには、離れの外に出て貰った。後はみずやである私だけの仕事だ。
「やっと始めてくれるのね……」
ゆきめは身体を起こそうとする。
「そのままで結構ですよ」
水差しの口をゆきめの唇に当てる。
「あんっ……」
ゆきめは、男に組み敷かれていた時と同じ声を喉の奥から漏らし、弛緩したように力の抜けていた身体を強張せた。
あやはじっと私の仕事を見詰めている。
水差しの底に水が少し溜ったのを確認して、ゆきめの唇から注ぎ口を離した。
「あたしのお水、思っていたより……綺麗な色ね……ねえ、これでお終いなの」
自分の仕事を終えたゆきめは、大儀そうにゆっくりと身体を起こし水差しの中を覗き込んだ。彼女の水は光を受けてキラキラと輝く。
「はい、ゆきめ姉さんの仕事は終わりました。おかげでいい水が汲めました」
「そう言って貰えると嬉しいわ、苦労した甲斐があるってものさ。それはそうとおみずやさん、その水が毒って本当なの……」
「左様です、そのまま飲めば他人には毒です」
「でも、これからそれをあやに使うんでしょう」
あやは自分の名前に身体をビクっとさせた。
「薬と同じですよ、多ければ毒になります」
「なるほどね、おみずやさんの匙加減というわけか」
ゆきめは襦袢を身に付け、雪のように白い肌を隠した。
「わたしはこれでお役ご免でしょう、戻ってもいい」
「どうぞ」
「あや、おみずやさんの言うことをちゃんと聞くんだよ」
「はい、ゆきめ姉さん」
あやは、心細そうな表情でうなずいた。

ゆきめから汲み取った水をあやの中に注ぎ込むのが、みずやである私に与えられた仕事だ。十分に経験を積んだ遊女からまだ買われて間も無い少女に水を移す。毒と薬の境目は個人個人みな違うから簡単な仕事ではない。しくじれば命を落とすことも有る。
それでもなおこうした依頼が有るのは、それを望む客とそこから高い金をせしめようとする者がいるからだ。そして何より仕事を受ける私たちがいた。
水の移し換えは先代である父が最も得意とした技だ。父は見習となった私の前で、遊女から少女へと手際良く水を移した。腕にそれだけ自信が有ったからこそ、あの時、私に母の水をくれたのだろう。

「あやさん、こちらへどうぞ」
ゆきめから汲んだ水を経験によって希釈する。それをあやに注ぐ前に十分に試す必要があった。父は良く私に言って聞かせたものだ『下手なみずやほど試しをしない』と。
「はい」
あやは部屋の隅から私の前に来た。緊張し過ぎて疲れ切った、そんな表情をしている。
「これから始めますが、何も怖いことは有りませんからね」
「はい……あの、おみずやさんが優しい人で安心しました」
少しだけ緊張を緩めてくれた。
「では、着物を脱いで」
うなずくと着物を脱ぎ傍らにきちんと畳む。痩せた裸身の胸の膨らみが僅かだが、脚の付け根の間は赤く、直前まで客を取らされていたのがわかる。
「四つん這いになって下さい」
あやは下半身をこちらに向けて言われるままの姿になる。そうするように仕込まれたのだろう。赤く腫れた粘膜のそこだけは少女の面影を失いつつあった。
水を指にとって舐めると見知らぬ風景が脳裏に浮かぶ。少なくとも毒では無い濃さだ。後はあやとの相性を見ればいい。
「始めますよ」
あやの赤くなった粘膜に指で、水を薄く塗り付ける。
「あっ……」
小さなお尻がピクンと震える。
「大丈夫ですか」
「……はい、冷たかったから、びっくりしただけです」
「何か見えますか」
「ええ、あの……」
あやの割れ目が膨らんで熱くなる。遊郭に身を置いてるとはいえ、少女の口からは言い辛い風景が浮かんでいる筈だ。
「内容まで言わなくてもいいですよ」
「……はい」
これで問題は無い。私は、あやの割れ目を広げると水の影響で熱くなった膣口に硝子の管をゆっくりと差し込んだ。
「あああっ……」
夜は既に明けていた。喘ぎを聞きながら水滴を垂らすと、雫は硝子の管を通ってあやの膣へと消える。この仕事が終わる頃にはまた夜になるだろう。

硝子の管を引き抜いて仕事は予定通り暗くなってから終わった。あやは横たわったままうるんだ瞳で私を見る。油を灯すとまるで、男たちに組み敷かれたゆきめのように肌を汗で光らせた。
「おみずやさん、お願いがあるの」
口調と表情にも、ゆきめのそれが混じる。
「何でしょう」
「預かっていただきたいものがあるの」
「私にですか」
「これです」
あやは、畳んだ着物から白磁の小瓶を取り出した。
「お水ですね」
「そう、おかあちゃんのお水」
「それはあやさんが持っていた方がいいのでは」
「いいえ、あたしが死んでもお水を汲んでくれるかどうか分からないもの。だから、おみずやさんに預けます。あたしの水をおみずやさんが汲んでくれた時は、おかあちゃんの水と混ぜて、そうでないときはおかあちゃんの水だけでも供養して欲しいの」
「わかりました。でもあやさんの水を汲むのは私の跡を継いだ者でしょう」
「このお代は後で必ずお支払いしますから、どうかお願いします」
ゆきめとは違う、すがるような眼差しを私に向けた。

あやの母親の小瓶を受け取り、私は廓を後にした。遊女の死に水は店にも拠るのだろうが、ほとんど汲まれている筈だ。だからあやが例えここで死んだとしても水を汲まれないなんてことは無い筈だ。それよりも私の方が先に逝くことになるだろう。小瓶はわたしの跡を継ぐ者に託すことになる。その者がいつ私の前に現れるかは分からないが。

日々は過ぎ、私がまた廓の格子戸を潜るまでに一年と少しが経った。案内されたのは同じ店だったが今度は離れではなく、以前来たことのある暗い地下室の方だった。ここには遊女の仕置き部屋と病人置き場がる。勿論、地下に降りたら生きて地上に戻ることは無い。
やはり店の者は出て来なかった。別にここに限ったことではなくそれがしきたりなのだ。代わりに木戸から案内した男が、病人の前まで連れて来てくれた。
「お願いします」
「ええ……」
ゴザに寝かされ、ボロのような布団を掛けられた遊女は見知らぬ顔だった。そして少し遅かったようだ。
「亡くなられてます」
男は、顔を歪めて女の顔を覗き込んだ。
「失礼いたしました」
「いえ、もう少し早く来れれば良かったのですが」
「わたくし共の不始末でございます。お代はそのままお持ち下さい」
男がそう言った時に暗がりから咳きが聞こえた。もう一人寝かされていたらしい。
「失礼」
私は、もう一人の女に近付いた。
「おみずやさん……」
女はあやだった。別人のようにやせ細っていたが。
「おみずやさん、労咳です。それ以上近付かんほうがいい」
男が言う。
「この子はどうするんですか」
私はあやの顔を覗き込む。死期が間近なのは誰の目にも明らかだった。
「いくらも稼いでない女郎は……」
男が言葉を濁したので私はそれ以上聞かなかった。
「どうでしょう、この子を私に身請けさせて頂けませんか」
「おみずやさんがですか……」
驚いたのだろう、また言葉の語尾が途切れる。
「この子とはまったく知らぬ仲でも無いので、これも縁でしょう」
「わかりました、店にはわたくしが話を着けます」
男は初めて笑みらしきものを浮かべた。

背負ったあやは、驚くほど軽かった。
「……ごめんなさい、あたしお代、作れなかった」
耳元で囁く。
「そんなことは、心配しなくていいですよ」
あやはきっとゆきめの水を得た時、自分の病に気付いたのだろう、だから私に母親の水を託したのだ。
「おみずやさんの背中、温かいね……」
「少しお休みなさい、まだしばらく掛かるから」
「ええ……」
あやの寝息を聞きながら私は足を速める。彼女に残された時間は僅かだ。

布団に寝かせるとあやは目を開けた。
「おかあちゃんの水……」
苦しそうに言葉を吐く。
「ちゃんと有りますよ、だから安心してもう少し眠りなさい」
あやを寝かしつけると私は風呂桶に水を張った。そこにあやの母親の水を開ける。水は水と混ざり合い一つになる。わたしはふと父親のことを思い出す。
あのとき何故、私に母親の水をくれたのか分かったような気がする。あれは母の望みだったのかも知れない。だから父はその思いに応えた。
「おいで」
あやの着古した襦袢を脱がせ、抱き上げる。いまは恥ずかしそうに胸を隠した。
「あやのおかあちゃんが待ってますよ」
「おかあちゃん……」
嬉しそうな笑みを浮かべる。
私はそっとあやの身体を湯船へと下ろす。
水は私の腕からあやを受け取った。
あやは水に抱かれ安らいだ顔になる。
ゆっくりと水に沈む。
その姿は徐々に薄れ、やがて見えなくなる。
あやは母の水に還った。



<了1999/03/04>






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