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SCENE004 藍原先生の綺麗な声が教室に通る。 クイーンズ・イングリッシュ(イギリスに留学したことがあるらしい)がボクの耳の右から入って左から流れる。 本当のことを言うと、英語は嫌いだった。 嫌いで済まされないのが、学生の辛いところである。 ボクの目は教科書のアルファベットでは無く先生のスカートのスリットに行ってしまう。それほど深く入っているわけじゃないけど、太もも丸出しのクラスメートに比べるとストッキングに包まれた細い足は大人の色気を感じさせた。 キツく編み上げた髪、大きく出した額、スッと伸ばした背筋、知的な雰囲気は嫌いじゃない。 先生の朗読が止まる。 「山田くん、起きなさい」 声の調子が一変する。 居眠りしていた山田が、運悪く先生に発見された(当たり前だが)。 『ヒステリーモードに入っちゃったよ』 誰かが囁く。 「わたしの授業中に寝るなんて、どういうことなの!」 ポカンとしている山田に先生が大声でまくし立てた。 藍原先生は時折キレる。それを我々はヒステリーモードと呼んでいた。 残り時間15分、今日の英語はこれで終わりだな。 昼休み、浅葱の作ってくれた弁当を食べ終わったところに高瀬が来た。 「篠崎くん」 「なに」 否応無く、今朝方の夢を思い出してしまう。 当たり前だけどドギマギしているのはボクだけか。 高瀬にいつもと違った様子は無い。 「藍原先生が、教官室で呼んでるわよ」 「また呼び出しか」 「今日は倒れるなよ」 三バカがはやし立てる。 「倒れないよ」 べえーっと舌を出したところで高瀬に袖を引っ張られる。 「行きましょう」 「高瀬も行くの?」 「だって連れて来なさいって言われたから」 律儀な性格である。 ボクたちは廊下を並んで歩く。でも、高瀬の方が少し遅れ気味だ。 良く見ると歩き方がちょっと変。 「高瀬、足どうかしたの?」 「えっ」 ハッとした表情で立ち止まる。 「あっ、いや、何か歩き方が変だったから」 高瀬の反応の方に驚いてしまう。 「別に何でも無いわ……朝、起きたら身体がちょっといえ、本当に何でも無いの」 「寝違えて筋でも痛めたのかな」 「……さあ」 ボクたちは、また歩き始める。 「篠崎くんこそ、身体、大丈夫なの」 ニコっと皮肉めいた笑みを浮かべる。 「言っておくけど、ボクはパンチに怒られて貧血を起こしたわけじゃないぞ。だいたい、会った記憶が無いんだから」 いつの間にか、パンチの説教で倒れたという憶測が、さも真実のように語られていた。 「みんな単に面白い方が好きだから、篠崎くんの弁明も無駄な努力なんじゃない」 「確かに」 横に並んだ高瀬は、リスみたいにかわいかった。 「なに?」 ボクが見詰めているのに気付かれてしまった。 「高瀬って、リスみたいだなって思っただけ」 「えっ、わたし前歯そんなに出て無いよ」 「歯じゃなくて、小動物的なかわいらしさってことかな」 「誉められてるの?」 「たぶん、誉めてるんだよ」 「たぶんというところが怪しい」 こんなに高瀬と親しく話すのは初めてだった。 「ちゃんと誉めてるって」 ちょっとウキウキした気分になって、つい口を滑らせてしまった。 「でもどうして、高瀬のこと夢に見たのかな」 「えっ」 高瀬の顔が強張る。 「わたしのこと夢に見たの」 流石に拙いか。 「いや、別に変な意味じゃなくて……」 本当は思いきり変な意味の夢だったが、正直には言え無い。 「……」 高瀬は黙り込んでしまった。 ボクたちは気まずい沈黙のまま教官室の前に達した。 「高瀬は、中に入らなくていいんだろう?」 「ええ」 じっとボクの顔を見る。いまの表情は夢の中の高瀬を彷彿(ほうふつ)させた。 「わたしも篠崎くんの夢を見たよ」 一言だけ言うとボクの前から駆け出して行った。 ボクは、ドアの前で固まって彼女が見えなくなるまで後姿を見ていた。 「篠崎くん、どうしたの?」 ドアの前にいる気配に気付いたのか、藍原先生が顔を出した。 「いえ」 「時間が無いんだから、グズグズしないで早く入りなさい」 言葉の感じから、誉める為に教官室に呼んだわけじゃないことを予知した。 しかし、逃げ出すわけにも行かないか。 「早速だけど」 ボクの担任である藍原眞奈先生は、椅子に座ってファイルをめくっている。 昨日の女のような黒いストッキングでも短いスカートでも無いが色っぽい感じは少しも負けていない。 表情と言葉を覗けばだが。 「この前の実力試験、篠崎くん、ちょっと悪過ぎるわね」 「ええ」 やはり、このことか。 確かに点数は悪かった。 「ちゃんと勉強しているの?」 「一応は」 「でも、結果は出て無いわよね」 「勉強はしました」 無駄とはわかってても、一応は言い訳してみる。 「あなた、勉強をしてこの結果なの、ふざけないで」 あちゃあ、ヒステリーモードに入ってしまった。 今日は、機嫌が悪いのか? 仕方なくボクはうなだれて先生のお説教(糾弾と言った方がいい)を聞く。 「ご両親にも報告しなくてはならないわね」 「でも」 「やはり、妹さんと二人だけという環境は良く無いわ」 《親が帰って来ると英語がペラペラになりますか?》とは、口には出さなかった。 ちなみに両親は英語圏にはいない。 イライラはボクにも伝染した。 だが「はい」と返事する意外は、とにかく黙っている。 藍原先生は、新婚ホヤホヤだが、性格はさほど変わっていないというのが、先輩たちの風評だった。 ボクたちは藍原先生の独身時代を知らないが、現状を観がみるに大きくは外れてはいないと思う。 「篠崎くん、あなた本当に反省しているの?」 強い調子で詰問される。 歳は昨日の女と同じぐらいいだ。睫毛が長く整った顔立ちをしているけど、眉間のシワが全部を台無しにしている。クロックの低下した頭で、藍原先生の容姿について考える。 「はい」 「もう、いいわ、あなたには話すだけ無駄みたいね」 最後に締めくくりの一発を付け加えた。 ボクの中に藍原眞奈という女に対する嫌悪感だけが残った。 「今日も呼び出されたんだって」 教官室からの帰り道、廊下で希未(のぞみ)に捕まった。 「何処から聞いて来るんだか」 「へへへ、今日は倒れなかった?」 「同じ質問ばかりで、もう聞き飽きた」 「ふむ、ちょっとオリジナリティーが無かったか」 楽しそうな笑みを浮かべる。 「今日も一緒に帰らないか?また呼び出されないうちに」 「残念、あたし今日は自治会の会議があるんだ」 「そっか、希未は自治会の役員だもんな」 「まーね」 「次は自治会長だな」 「えー、やだよ」 「ボクと違って人望あるからね、希未の場合」 「睦月より人望が無かったら大変だ」 「どうせね」 「はっはっはっ、冗談だよ。あっ、思い出した、さっき保健の先生が『来るように』って」 「保健室に?」 「うん」 大きな瞳でボクを見詰める。 「何だろう」 「昨日、倒れたからでしょう」 「別にどこもおかしく無いのに」 「おかしくないことを確かめたいんじゃない、コロっと死んじゃったら先生の責任問題になっちゃうもの」 「不吉なことを嬉しそうに言うね、キミは」 「手間をかけるね」 「いつものことでしょう」 「まあね」 「じゃあ、浅葱ちゃんによろしく、今度、特製クッキーの作り方教えてあげるって言っといて」 「了解」 希未は忙しいのか、ぴゅーと風のように行ってしまった。 昼休みは、まだ残っていたので、さっさと用事を済ませることにした。 保健室に入ると消毒液の臭いが鼻をくすぐる。 「あのお」 声を掛けると白衣の保健の先生がクルンと椅子を回してこちらを向いた。 「ああ、篠崎睦月くんね、いらっしゃい」 ズリ下がった度の強い眼鏡を人差し指で押し上げる。 先生の隣には、女子がひとりいた。知っている顔にちょっとドキっとする。 「失礼します」 小さな囁くような声。彼女は先生に会釈してボクの横を通り過ぎる。 同じクラスの後藤恵美だ。 目立たないおとなしい娘だけど、線の細い感じのする美人という言葉がピッタリの人だった。 密かなボクのお気に入りでもある。見ているだけで心地よい気持ちになる。そんな人。残念なことにほとんど話をしたことはない。 恵美が保健室の扉を閉めるのを見送ってから、先生の方を向いた。 「あの何でしょう?」 「問診に決まってるでしょう、本来だったら専門病院で検査するところなんだけど、あなただって大げさにはしたく無いでしょう」 髪は無造作なショートカットで化粧っ気の無い顔は、子供っぽくみえる。 これで背が低かったら、JRは子供料金でイケそうだ。 ということは、若いということだが幾つなのかはわからない。 「ええ、身体は何とも無いですから」 「何とも無くて当然よ、何かあったらあたしの責任ですからね」 保健の先生も黒いストッキングだが、こちらは小学生の制服を連想させてしまう。 「まあ、いいわ、椅子に掛けてちょうだい」 「はい」 先生の前に座る。 「朝ご飯はちゃんと食べてる?」 「ええ、昨日も今日も、ちゃんと食べてます」 「立ち眩みとかは?」 「ほとんど無いです」 「昨日みたいな経験は?」 「初めてです」 「篠崎くんの幼馴染も同じコトを言ってたから間違いは無いわね」 「ええ」 「どうして倒れたか、自分でわかる?」 「いえ、さっぱり」 「倒れた時のこと覚えてる?斎藤先生は『俺の顔を見るなり倒れた』っておっしゃっていたけど」 「全然、覚えてません」 「そっか、あたしはてっきり斎藤先生の怖い顔を見て卒倒したんだと思ってたわ」 本当に子供みたいな無邪気な笑みを浮かべている。 「誰もが、先生と同じこと思ってるみたいですね」 「篠崎くん自身は、斎藤先生のことを覚えていないのね」 「はい」 「じゃあ、どの時点で倒れたのかしら?」 「何処で倒れたかは自分でもハッキリしないんです、夢とゴッチャになっていて」 「夢ってどんな内容なの?」 「ちょっと内容は……」 「忘れたわけじゃないんでしょう」 「ええ、まあ」 「わかった、セクシャルな内容の夢なんだ」 「正解です」 「キミの年代なら、指し当たって珍しくもなんとも無いわ、話してくれる」 「えっ、でも」 「誰にも言わないから、夢は重要なのよ、卒倒した原因を暗示している場合が有るから」 「原因を暗示ですか」 「さあ、話して」 「わかりました」 仕方なく、昨日の進路指導室での出来事を語ることにした。 「進路指導室に呼ばれて中に入ったら、女の人がいたんです」 「進路指導室に入った時点で、既に夢になってるのね」 「斎藤先生の話と照らし合わせるとですね」 「進路指導室にいたのは、どんな女性だったの、知ってる人?」 「いえ、初めて会った人です。知的で綺麗な人でした」 「なるほど、あたしみたいな人か」 冗談か? 「他には?」 「エッチな感じのする人でした」 「つまり、色っぽいわけね」 「ええ」 「いきなりSEXしちゃったの?」 「いえ、不自然らはならないぐらいには段階が有りました」 「すると最初は、お話しをしたのかな」 「はい」 「内容も破綻していないわけね」 「はい」 「話題は覚えてる?」 「ええ、女の人は1年前、ボクが参加したT製薬の実験の追跡調査に来たって言ってました」 「T製薬の実験て何?」 「風邪薬の新しい奴を作る為のモニターです。当時、酷い風邪にかかっていたので、お医者さんがこれはいいって紹介してくれたんです」 「一年後の追跡調査か、実際に調査が入ったことは有るの?」 「いえ、無いです」 「ねえ、昨日の夢の前にT製薬の実験を思い出させる出来事とか無かった?」 「朝の夢が実験室での夢でした」 「夢が夢に影響しているのかしら」 「どうでしょう」 「進路指導室の女の人は、篠崎くんに調査と称してやって来たわけね」 「はい」 「彼女は、まず何をしたのかしら」 「いろいろ質問をされました」 「内容は?」 「最近の健康状態についてですね」 「夢とは思えない精密さね」 「いまだに夢とは思えないぐらいのリアルさは有ります」 「何処からセクシャルな内容になるの」 「質問の途中からです。内容がボクの女性経験になったんです」 「質問が一気にセクシャルに行くわけだ」 先生が足を組替えた。でも、進路指導室の女みたいにスカートの奥までは見せてくれない。 「ええ」 「宇宙人とSEXしたよりは説得力があるけど、昼休みに進路指導室でってのも現実的じゃないわね」 「確かに……場所は現実的では無いですね」 「わかったわ」 保健の先生はポンと手を打った。 「えっ、ボクの倒れた原因がわかったんですか」 「一種のヒステリーだと思うわ」 ヒステリーというと、先ほどの藍原先生。 「性的な欲求が引き金になっているのは、間違い無さそうね」 まんまの結論のような……。 「はあ」 「いいお薬が有るから飲んでみるといいわ」 「薬ですか」 「精神安定剤ね。効き目が穏やかなものよ」 先生は、棚から薬を出して来た。 「ここで飲んで行きなさい、少し眠くなるけど授業中に寝ちゃ駄目よ」 「はあ」 ボクは、保健の先生から小さなカプセルを受け取った。 午後の授業は確かに眠いものがあった。 でも、それは保健室で飲んだ薬の所為ばかりではない。 いつものことだから。 六時間目の途中で意識を失い、気が付いたらチャイムが鳴っていた。 見つからなければ、問題じゃないからいいだろう。 ボクは、誰かに呼び出される前にさっさと帰ることにした。
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